2017年8月22日 (火)

ストライキ

労働条件改善のために労組で活動することにより、目に見えて雑務が少なくなってきています。
業務自体がなくなったものもあれば、組合員に限って免除されたものもあります。
後者については、相対的に非組合員の負担が増えることになりますが、組合は慈善団体などではなく、組合員の利益のために活動しているので、まあ、やむを得ないでしょうね。
ただし、こうした活動が将来的には教職員全体の労働条件改善に結び付くので、長い目で見れば非組合員にもメリットはあるのですが、目先のことしか見ていない人は、「組合のせいで仕事が増えた」などと的はずれな逆ギレをします。目先の業務負担も減らしたければ組合に加入すれば済む話なのに、そういう選択もせずに愚痴をこぼしているだけなんですよね。不思議な人たちです。

国公立大学や、あるいは私大でも教員に雑務があまり降ってこないところだと、あまり問題にならないのかもしれませんが、本学のように教員を研究者ではなく単なるコマとして扱っているようなブラック大学では、頼れるものは労組しかありません。
「労働条件の改善のために組合活動に時間を費やすのは本末転倒じゃないの?」と、学外者から言われたことがありますが、そういう人たちはブラック私大の現状をわかっていないのでしょう。むしろ真逆であって、組合活動をしなければ、その何倍もの雑務負担によって研究・教育の時間がどんどん奪われるという状況など、想像できないのかもしれません。
例えば国立大学も今はいろいろ大変だとは仄聞しますが、こういうことひとつをとっても、まだまだ国立は恵まれているんじゃないかと思えてきます。

さて、うちの労組は、去年、スト権を確立しました。約半世紀ぶりということになります。
「労組はスト権を有する」ということは、中学校の社会科の知識ですから、誰でも知っていることでしょう。しかし、実際にストを決行するというのは、そんなに簡単なことではありません。
「確立する」という言い方からもわかるように、いつでも自由にできるわけではなく、その確立には(内部規約にもよりますが)全組合員投票が必要となります。
顧問弁護士からは、確立は難しいのではないかと言われていましたが、総会で発議し承認、そして全組合員投票でも大部分が賛成し、無事に確立しました。
この春、JR東日本労組がスト権を確立した際、「伝家の宝刀」と報道したメディアもありましたが、まさにそのとおりです。
私が中高生くらいの頃は、旧国鉄に限らず、どこの会社がストをするとかしたとかいうニュースがよくありましたが、最近はストをする労組は減っているのか、あまりニュースになりません。
特に、学校関係でのストなどは非常に少ないと思われ、ほとんど耳にしません。現在、大学の労組でスト権を確立しているところはどのくらいあるのでしょうかね。

まあ、ストといっても某業務に限定した部分ストであるうえ、少数組合なので、ほとんど業務に支障はありませんでした。事前通告し、法人が代替要員を確保する時間は十分にありましたから。
こちらも業務を妨害する気などはさらさらなく、あくまで交渉のためのカードです。ただ、上記の如く、代替要員の確保が容易なので、法人にとってはたいした脅威にはならないんじゃないかという懸念はありました。
ところが、予想以上に法人は慌て、総会にスパイを送り込んでくるわ、団交では泣き言を言うわで、なかなか愉快でしたね。
そのうえ、「検討します」「善処します」と言いつつまったく放置されていたいくつかの交渉事項が急に進展したので、効果覿面です。
法人が恐れたのは、業務に支障が出ることよりも、「○○大学でスト」とメディアに採り上げられることだったのではないかと思われます。とはいえ、本学のメディア統制力は相当なもので、まずい事案はたいてい揉み消されます。事実、昨冬に実行したストはまったくニュースになりませんでした。
まあ、ごく少人数だったし、業務への支障もなかったので、たいしたニュースバリューもなかったでしょうが。

半世紀前のストは、某学部の昇任人事に法人が不当介入したことに端を発し、その学部の少なからぬ教員が全面ストをしたことから休校状態に。そのうえ、労組と対立していた学部長の別件不祥事も明るみに出て、全国紙を賑わせたそうですが、現在、ネット上ではその情報はほとんど見付けられません。これこそ本学の揉み消し部署の力でしょう。
もっとも、当時の新聞記事を探せばすぐ見付かりますので、揉み消すといっても限界がありますけどね。

今年は、改めて組合員投票をすることで、スト権の範囲を拡大しました。
学生教育には支障が出ないようにしていますが、これまで「通常業務に含まれる」という魔法の言葉で残業代もなく無制限に押し付けられていた種々の業務を対象としているので、相当に楽になりました。
しかし、労組がスト権を有しているという中学校レベルの常識を知らない教員が少なくないのも確かで、「はあ? スト? なんだそりゃ。ふざけてないで仕事しろ」などと放言する御仁もいるのが現実です。そういう発言は明白な不当労働行為ですが、組合員のなかにも、自分だけ仕事をしないということに罪悪感を持ち、なかなかスト権を行使できないという事例もあります。
こういう状況を放置・黙認すること自体、組合活動の萎縮を助長することに繋がりますので、本来、事務職員や管理職教員が、最初から組合員にスト対象の業務を振らないようにしなければならないはずです。
実際、「空気を読め」という同調圧力があるのは確かですし、スト権への無知・無理解からストを非難する人もいて、そういう連中の顔色をうかがい、「人間関係を壊したくないから」という、法的にはなんの意味もない理由で、なかなかストに踏み切れない人もいます。
少数組合は、やはりこういうときに不利ですよね。なので、今後もそういう状況が続くようであれば、こちらも強行策を採ることも考えなければなりません。

まあ、私はそういう人たちを、法律を知らない単なる無知だとしか思っていないので、空気を読まず平気でスト権を行使しますが。
研究しない自分を正当化するには、膨大な雑務を引き受けるている自分に酔うのがもっとも手っ取り早いということをこの数年で理解しました。研究と教育のために大学教員になった私は、そういう「奴隷の鎖自慢」などに付き合っている暇はありません。
研究・教育に十分な時間と労力を投入するためにこそ、組合活動は不可欠だと考えます。

ついでにいうと、本学では、いい加減な前歴換算により初任給の号俸を不当に低く設定しています。なので、世間に公表しているモデル賃金はまあまあそれなりですが、実際にその額をもらっている教員は少ないと思います。
組合では、組合員の分だけ前歴換算の再計算を要求し、その結果、多くの組合員が定期昇給分を上回る昇給をしています。私も、おかげで生涯賃金にして数千万単位で利益を得ました。
これだけのメリットがあるのに、労組を否定的に捉える人たちの気が知れません。

もっとも、健全な職場であれば労組に頼る必要もないでしょう。しかし、運悪くブラックな職場に就職してしまった人は、頼れるものはほかにありません。
職場に労組がない場合は、地域や業種別の組合に加入するなり、数人の同志を集めて立ち上げるなりしましょう。
あるいは、労組はあるけど力がないとか、御用組合だという場合は、自ら改革するくらいの気持ちがなければ、いつまで経っても変わりません。
「同じ立場の人がこれだけ大勢いるのだから、誰かがやってくれるだろう。わざわざ自分が矢面に立つ必要はない」というのは、誰もが持つ考え方です。それゆえ、誰もやってくれないという可能性も高いのです。
いつか誰かがやってくれるだろうとあてもない夢想をして自ら動こうとしない人は、一生ブラック企業に搾取され続けるしかありません。 まあ、それはそれで余計なことを考えずに済むので、ある意味で幸せなのかも知れませんが。

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2017年7月22日 (土)

ブラック大学平常運転

某KK学園もそうですが、同族経営の学校法人というのは、腐っているところが多いのでしょうかね。
しかし、文春が入手したという教職員へのアンケートを見ると、多くの人が獣医学部新設に反対しているんですよね。法人の体質はともかく、中の教職員にはまともな人が多いという印象です。
だって、うちの大学で同じ状況だったらと考えると、こんなこと絶対ありえないですよ。
やり方が汚いとか、まともに運営できるのかとか関係なく、大学が決めたことならとにかく賛成。反対するなんてとんでもない、というイエスマンどもが山ほどいます。そういう意味では、あの学園がうらやましいですね。もっとも、移りたいとは思いませんが・・・

うちの大学、この4月に創業家のボンボンが総務部長となり、おそらくそのことと連動しているのでしょうが、労組が過半数組合でないのをいいことに、過半数代表者を取りにきました。
今まで過半数代表者を立てることもなくすべて組合に任せていたし、3月末の事務折衝でも一言もそんな話は出ていなかったのに、4月になってすぐに告示。しかも、立候補するには短期間に30人の推薦を集めなければならないという。どう考えても誰も立候補できない状況にしたうえで、法人の意のままになる傀儡を擁立しようとしているのは目に見えています。
それでも、なんとか組合からも候補を立てましたが、法人は非組合員である労働法の専門家を擁立し、管理職の教職員を動員した大規模な組織票の前にはなすすべもなく。
これで、就業規則や労使協定は法人の思うがままとなってしまいます。

それにしても、あの労働法の専門家、これまでは「労使問題に関わりたくない」といって組合からも距離を取っていたくせに、労働者を抑圧するために法人の傀儡となるとは、研究者のプライドはどこに行った。よほどおいしい“おまんじゅう”でももらったのでしょう。

しかし、こちらも指をくわえて眺めているわけにはいきません。詳しくは書けませんが、各種法的措置をとって対抗しています。
すでに、この問題を含め、労基署から是正勧告と行政指導は出ているのですが、まだまだこんなものでは許しません。

・・・ところで、こういう労働上の深刻な問題が起こっていることを知ってか知らずか、我が学部長は脳天気にも、そういう法人の違法性を助長するようなことを言い出しました。
学部創設○十周年記念事業をやりましょうとかノリノリで提案してきたんですが、それを遂行するためにはどのくらいの業務が発生し、どのくらいの教員に業務が降りかかるのか、わかっているのでしょうか。まさか教員をただ働きさせるつもりじゃないでしょうね?
それで、会議の際に確認してみました。「記念事業に関わる業務は、所定業務ですか? それとも追加業務ですか?」と。
最初、質問の意図が理解できなかったみたいで「は?」という顔をしているので、「要するに、追加業務であれば時間外労働ということになりますよね」と言ったら、ようやく理解できたみたいです。
しかし、「ペイメントがないとやれないというのは、○十周年記念の趣旨にそぐわない」「有志の方のみでやっていきたい」とか、トンデモないことを言い出す始末。あのね、「文化祭の出し物をみんなで力を合わせて頑張ろう!」というものではなく、紛れもなく業務なんですよ。対価をともなうのは当然でしょう。これから予算を申請するのなら、その分も含めて申請するべきです。
その質問に対しては、「これは上から言われた業務ではなく、学部から提案しているものなので、人件費はハードルが高いと思います。そのことによって事業の規模を縮小せざるを得なくなりかねないので、最初からそういう申請はしません」と。
要するに、「私の思っているような派手なイベントにするためには、みなさんに無償労働をしてもらうしかありません」ということですか。呆れてものが言えません。

大学教員は裁量労働制なので、残業という概念はなく、労働時間は自分で管理するものである――という前提に立っているのだと思いますが、これには二重の誤解があります。
そもそも、うちの大学は就業規則の上では裁量労働制ではないんですよね。しかし、裁量労働制であるかのように運用しているのは確かで、各種交渉で法人もそのように説明しています。要するに、現時点ですでに違法状態にあります。
そのうえ、たとえ裁量労働制であっても、残業代を支払わなくてよいということにはなりません。裁量労働制の場合、所定業務をみなし労働時間とし、週40時間を上回っても下回っても40時間働いたとみなすわけですが、例えばみなし労働時間が最初から40時間を超えて設定されている場合は、当然残業代の対象となります。また、休日や深夜、あるいは所定業務外の労働も、もちろん残業です。

何をもって所定業務とするかというのは、かなり恣意的な部分もあり、「学部長が必要と認めた業務」という言い方で、なんでも所定業務扱いされてしまう危険性があります。
しかし、○十周年記念事業という、それこそ10年に一度しかないような業務は、どう考えてもイレギュラーな業務であるうえ、会議で「所定業務ではありませんよね」と確認し、それを認めさせているので、言い逃れはできません。

ただ、その会議の議事録に、私とのやりとりで確認したこと(所定外業務であり、参加は任意であること)が載っていませんでした。
そこで議事録修正意見を出し、この文言を載せるように要求しているのですが、いまだに議事録が出てきません。よほど文章化するのが都合が悪いのでしょうが、このまま誤魔化し続けるようなら、こちらにも考えがあります。議事録改竄は私文書偽造ですからね。お気を付けください。

しかし、前学部長は法人の顔色ばかりをうかがい、学部教員の意見に耳を傾けない「上を向いて歩く」最低の人間で、それに比べたら現学部長はずいぶんましだと思っていたんですけどね。買いかぶっていました・・・。お嬢様のおままごと感覚で学部運営をされたら、とても迷惑です。
会議の場で、「これは明らかに無償労働であり、であるならば有志だけでやったとしても違法です。残業代ゼロ法案が取り沙汰されている現在、それを先取りするかのようなことを大学が率先してやるんですか?」という質問をぶつけようかと思っていましたが、まだ時期尚早であると考え、黙っていました。もっとしっかり外堀を埋め、逃げ道がなくなってから吊し上げます。

その他、高校訪問や入試関連業務等、所定業務か追加業務か曖昧なまま運用しているものがまだまだありますので、そのあたりを明確化すべく、割り振られた業務を「違法性がないことが判明するまではできません」と断り、かつ、他の教員にも代理で引き受けないようお願いしてあります。
そのことで、「空気を読めない迷惑なヤツだ」と反感を持つ教員もいるようですが、しかしこれにより、今まで所定業務として手当てなしでやっていた仕事に手当てが付くようになったら、そういう人たちも漏れなくその恩恵に与ることができるわけです。
私は、小銭がほしくてこういうことをやっているわけでなく、なんでもかんでも所定業務扱いすることで、無制限に教員に雑務を押し付けることの可能な環境が構築されている現状を壊すためにやっています。

また、こうして雑務を断ることが、研究の進捗状況にも反映するのだということを、身をもって示すことも重要ですね。
今年上半期は、原稿5本ほど入稿しました。自慢できるような仕事量ではありませんが、私にしてみれば、まあまあのペースです。
大学に身も心も捧げるイエスマンたちは、どのくらい書いているのかな?

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2017年4月17日 (月)

教員公募

本学のほとんどすべての学部や研究所の教員人事は、公募によっておこなわれます。
うちの学部について言えば、設立から10数年は非公募だったそうですが、ここ20年近くはずっと公募で決めています。
選考方法は学科・専攻によって小異はありますが、うちの専攻では全教員(退職予定者を除く)が書類選考にも面接にも関わります。
それまで私が応募者として経験した公募の面接では、面接者は多くて5~6人でしたが、本学の面接では、会場に行くと10人ほどの人がズラッと並んでいたので面食らったものです。

ところで私が採用されたのは、専攻の退職者ラッシュによる後任補充5ヶ年計画の1年目でした。つまり、その後も4年公募が続くことになります。着任の年から今度は採用する側に回り、4年連続で選考に関わることになったわけです。
ついこの間までは色々な大学に応募し、審査されていたのに、そんな自分がいきなり選ぶ側になっていいのだろうか・・・などと初々しいことを考えていたのは一瞬で、大量の応募書類に目を通し、この先何十年と一緒に働くことになる同僚を選ぶ、きわめて重要な作業であることを認識すると、そんな呑気なことは言っていられなくなります。

書類だけで、その人のすべてがわかるわけないのですが、それでも研究者・教育者としての側面のみならず、ありとあらゆることを知りたいと思いますので、例えば業績としてはカウントしないような雑文とか、経歴としては重視しないような種々の経験とか、そしてもちろん着任後の抱負や研究計画、授業案なども、とても重要な参考資料となります。
なかには、雑文などは業績でないとばかりに、業績一覧に論文(と本)だけしか載せない人もいます。こちらでも調べるので、本当に雑文的なものがないという場合もありますが、あえて割愛している人も時々います。でも、そういうことはしないほうがよいですよ。
もちろん、雑文とか研究会の世話役とかは、研究業績や経歴として一切カウントしないのですが、その人の活動の多様性を見ることができるので、それはそれで重要な情報になります。特に専任歴のない人は、種々の学内業務をこなすスキルの有無を、こういうところからも推測したりします。
ただ、少ない業績をカバーするため枯れ木も山の賑わいとばかりに、雑文を論文欄に書いてはいけません。「その他の業績」あるいは「MISC」として、きっちり論文と分けて書いてください。
それから、書類選考である程度ふるいにかけて残った人については、ネット上の情報は必ず調べます。とんでもない人物が同僚になったら困りますからね。もちろん、ネット上の情報がすべて真実であるとは思いませんし、また、匿名での発言まであげつらうのは気がひけますが、あえて危険を冒してまでマイナス情報のある人を採る理由はありません(それでも採りたいと思える人も、ごく稀にいますが)。

推薦書等、こちらが求めていない書類を同封してくる人がいます。
これについては、別にどうでもいいと思っています。入っていたら一応読みますし、その人のことを知るための情報になるのも確かですが、しかしそれが決め手になることはありませんね。逆に、落とすための理由になってしまうことはあるかもしれません。

ところで、私は「D2病」と呼んでいますが、業績至上主義者というのがけっこういます。
初めて論文の査読にパスし、「これで自分もいっぱしの研究者だ」と思う時期は誰にでもあるでしょうが、そういう考えはD2あたりで卒業しましょう。優れた研究業績さえあれば「研究者」にはなれるかもしれませんが、「大学教員」に求められるのは研究能力だけではありません(もちろん研究能力がないのは論外だとしても)。そんなこと、学部4年で就活していたかつての同期が、学業成績だけで就職が決まったわけではない、ということから簡単に類推できそうなものですが、それができない人がたくさんいます。
まだ専任職に就いていない人のうち、とびきり優秀な研究者を10人思い浮かべてください。みんな、「なんでこんなに優秀なのに、専任になれないんだろう?」という人ばかりでしょう。でも、そのなかに「同僚として30年一緒に働いてもよい」と思える人が何人いますか? 要するに、そういうことです。

あと、「私の苦境をご理解ください」という人。
いや、さすがに応募書類にそんなこと書く人はいないと思いますが、ネット上で、あるいは研究者の集まり等の場で、そういう発言をする人は少なからずいます。
もちろん気持ちはわかりますよ。痛いほど。私もそういう時期がありましたから。
でも、そのことと採用とは、当たり前ですがまったく関係ありません。
確かに、優秀だけど不遇な人が身近にいたら、なんとかしてあげたいと思うし、実際にそういう人に非常勤とか任期付きポストとかを世話してあげるという話もよく聞きます。
ポストがなくて苦労している優秀な研究者は山ほどいるし、一人ひとりに色々な事情があるでしょう。みなさん大変な思いをしているし、同情せずにはいられません。
しかし、「同僚として30年一緒に働く人」を選ぶときに、そんな個人的な事情を配慮すると思いますか? 大学は、その大学にとって必要な人材を求めているわけで、ある不遇な研究者のために人事をしているわけではありません。普通に考えれば、わかりそうなものです。
でも、長く苦労していると、本当にそういうことが考えられなくなり、「自分はこんなに苦労している。きっと事情を理解してくれる大学があるはずだ」という思いに支配されてしまうのです。「きっと神様は見てくれているはず」というスピリチュアル系の発想に近いともいえますが、案外、そういう考えに囚われてしまう人は多いと思います。私もそうだったかもしれません。
でもね、その考えを対象化できないと、そういう意識が知らず知らずのうちに、書類や面接で出てしまいます。「私を採用してください」ではなく、「私はこの大学で、こういうことができますよ」でなければ、採りたいとは思いません。

そんなこんなで、色々な人の書類を見、色々な人と面接で話しました。本当に真剣勝負です。
多くの候補者のなかから一人を選び、あとはすべて不採用とするのですから、やり直しはできません。「こんな人と一緒に働きたくない」という人を見きわめられずに採ってしまったら、もうおしまいです。ずっとイヤな思いをしながら働かなくてはなりませんからね。
なので、安易に結論を出さず、適任者なしとして公募を流したこともあります。

このように、全教員で本当に真剣に選考しているわけですが、ある年の公募に際し、ある筋から「あの公募は誰々を採るためのデキだ」という根も葉もない噂が聞こえてきました。非常に腹が立ちます。
私が把握したのは、出所の異なる2種類の噂でしたが、ひとつは私の母校の教員(『20世紀少年』に出てくる2人のマフィア、王暁鋒とチャイポンを足して2で割ったようなおっさん)が発信源だというので、呆れて言葉を失いました。
なんでうちの大学と縁もゆかりもないそのおっさんが、したり顔して「あの公募はデキだ」などといい加減なことを言えるのか理解に苦しみますが、その戯言を信じる人までいるというのですから、アホばかりで呆れますね。
もっともあの大学のあの学部は、ちょっと前まで教員はみなコネ採用だったし、今は公募にしたとはいえ、ほとんど出身者ばかりを採用しているので、そういう発想になるのもやむを得ないのかもしれません。
いや、コネだろうと一本釣りだろうと、優秀かつ有用な人材を採れればいいと思うので、あの大学の採用方式にケチをつける気はありませんが、自分の大学がそうだからといって、よそも同じに違いないと考えるのは、頭のおかしい人です。法人の顧問弁護士に頼み、名誉毀損で訴えてもよかったんじゃないかな。

・・・とまあ、くだらぬ噂はあったものの、着任してからの4年間、真剣に人事選考に携わり、「健全な人事をする、風通しのよい職場に来たものだ」と満足していました。
ところが、4年目の選考が終わった頃、それまで私が信じていた本学のイメージを根底から覆すような事件が起こりました。

(続く)

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2017年4月 2日 (日)

7年目

早いもので、今の職場に来て6年が経ちました。
昨日付で教授になりましたが、別に業務内容も昇給ペースも変わらないので、これまでどおり通常営業です。

※なお昨日は、辞令交付の時間帯に新入生の英語のプレイスメントテストの監督業務が重なってしまい、受け取りに行けなかったうえ、研究室のプレートの入れ替えも遅れているため、まだ昇任したという物証はありません。

本学では、教授への昇任審査を受けるには准教授として6年勤務する必要があるのですが、着任1年目の時点では、「顕著な業績がある場合は5年でもよい」という規定がありました。なので、もちろん5年で昇任するつもりでいたのですが、翌年、この条文が削除されてしまいました。
明らかに「労働条件の不利益変更」に当たりますが、当時の教職員組合は弱腰だったので、この変更を認めてしまったのでしょう。
そのうえ、年度の途中での昇任は慣例として認めていないらしく、前任校での半年の准教授歴を加えて5年半で昇任というのも難しそうなので、やむなく6年待つことにしました。

別に、早く「偉くなりたい」ということではありません(そもそも教授がエライとは思っていません)。
本学は、教授会は文字どおり教授だけで構成され、学部長選挙の投票権も教授しかない等、極めて権威主義的な大学運営をしているので、そのなかで生きてゆくには、さっさと教授になるほかないのです。
うちの学部は、全教員参加の「拡大教授会」方式で会議をし、そこで議決されたことを教授会が追認することで、事実上、全教員が参加し意見を出せる形の運用をしていますが、いざという時に「教授でない」ことが不利に働くことがあります。
以前、前学部長が某案件を強行採決した際は、拡大教授会での私を含めた数人の猛反対と5時間に及ぶ激論にもかかわらず、最終的には教授だけ残って採決したわけで(しかも「条件付き賛成」を「賛成」と改竄)、この時ほど自分が教授でないことを恨めしく思ったことはありません。
前学部長は、法人の意向だか、その向こうに控える某政治家の意向だか知りませんが、そういうものを忖度して、学部の教職員や学生を平気で犠牲にするような最低の人間でした。そして、少なからぬ教員が、「空気を読んで」、それに同調するわけです。そういう流れを止めるために、私は何度もその不当性を指摘し、あれこれ主張してきました。拡大教授会方式ですから、通常は、准教授であっても言いたいことを言えるわけです。でも、いざという時には、「合法的に」その意見を排除することが可能なので、准教授として意見を出すにはおのずと限界があるということですね。
学部長だろうと、理事だろうと、創業家の人間だろうと、理不尽な言動があったら私は黙っていられないので、批判すべきところは批判します。なので、周りからは「誰彼かまわず吊し上げる怖い人」と思われていたかもしれませんが、そんなことはありません。やはり、そのことで昇任の妨害をされる可能性も想定していましたので、それなりに遠慮はありました。

しかし、そんなことは杞憂に終わり、無事に昇任できたので、もう誰にも遠慮はしません。
もっとも、昇任に必要な研究業績がある人間を昇任させなかったら典型的なパワハラであり、かつ、状況的に不当労働行為になる文脈でしたから、さすがにそんなあからさまなことをしようという人はいなかったのでしょう(とはいえ、管理職でありながら不当労働行為というものを理解していない困った人がいるのも事実)。

ところで、昇任に必要な業績と言いましたが、実は私、恥ずかしながら、一昨年の3月以来論文を書いていませんでした。この年度末に出た論文が、実に2年ぶりの論文となります。その間、雑文は何本か書いていましたが、これは昇任審査の対象外なので、つまり業績だけなら2年前の時点で昇任できていたということですね。
そういう意味でも、6年も待たなければならなかったのは、本当に無駄な時間だったと思います。

・・・さて、それはそうと、
論文を2年も書けなかったというのは深刻ですよね。
かつてこのブログで、「どんなに忙しくても、半年なにも書けなければ末期症状、1年書けなかったらもはや研究者としては終了」と書きました。忘れたことはありませんし、取り消しもしません。
この2年間、「私は研究者を廃業していました」と認めます。
そして改めて、また1からスタートするつもりで研究者を名乗りたいと思いますので、よろしくお願いいたします。論文も近いうちにあと何本か出ますし、これから2ヶ月で某書の書き下ろしもしますので。

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2016年12月29日 (木)

サバティカル

うちの大学のサバティカル制度は非常に貧弱で、15年勤めて半年しか取得できません。
しかも、一度取得した人は対象外となるので、たとえ30年勤めても二度は取れません。また、60歳未満という制限があるので、45歳以降に着任した人は生涯チャンスがありません。
それでも、かつては制度自体が存在していなかったので、導入されただけでもよしとしなければなりません。教職員組合がやっとのことで勝ち取った成果ですが、当時の組合は弱腰で、というか法人性善説に立っていたため、まんまと騙され、定年引き下げという交換条件のもとに承認されたそうです。
そのうえ、「制度設計は法人に任せるが、他大学並みの一般的なものを」と、法人に丸投げしたところ、勤続15年で半年という、常識はずれのモノが出てきてしまったということです。
まあ、法人を信じて丸投げした当時の組合が甘いといえば甘いのですが、「他大学並み」といえば「7年に一度、1年間」でしょう。それなのにこんなのを出してくるなんて、いかに本学がブラックであるかということがわかるエピソードですね。今の組合の体制では、こんな無茶苦茶な取り引きは絶対に認めません。

さて、そういう経緯で導入された「なんちゃってサバティカル」のほかに、勤続5年で最長1年取得できる研修制度があり、こちらと併用すれば、まあ、世間並みの研究環境は維持できるのかな、という感じですね。
私はすでに6年目ですが、去年までは学会事務局を引き受けていたこともあり、事務局の終わった現在も、あれこれ落ち着かないので、あと1~2年ほどしたら申請してみようと思っていました。
それで、改めて規程を読んでみたのですが、国内研修の場合、50歳以下、准教授以下しか申請できないと書いてありました。50歳以下ということは知っていたので、そろそろ準備をしようかな・・・という意識はあったのですが、准教授以下という点をみごとに見落としていました。あと3ヶ月しか准教授でいられない私は、いつの間にか対象外となっていたわけです。
そのうえ、この制度は某機関の制度を併用するものなのですが、その機関の国内研修制度を調べてみると、10年近く休止中であるということがわかりました。問い合わせてみたところ、再開の目途は立っていないとのことで、つまり本学のこの制度は実質的に機能していないということです。
某機関の国内研修制度が休止中であること自体はその機関の問題で、それを本学に帰責することはできません。しかし、そうだとしても、国内研修をこの制度に負っていたことも事実ですから、大学としては代替措置を考えるべきではないでしょうか。

それにしても、10年近くもこの制度が機能不全に陥っていたというのに、誰も声をあげなかったというのがすごい。
まあ、国外研修制度があればいいや、と思う人が多かったのかもしれませんが、国内研修制度を必要としている教員だって少なくはないでしょう。「でも、制度がなくなちゃったんじゃしょうがないよね」と考える教員が多いのでしょうが、しかし、「それを変えていこう!」という方向に進まないというのは問題ですね。

ということで、これを機に、組合からサバティカル制度の拡充を要求することになりました。
まあ、現行制度の導入が、あれほどの犠牲を払ったうえでのものだったことを考えると、難しいかなとは思うけど、種々の成果を勝ち取っている今の組合の体制であれば、あるいは・・・とも思います。
それには、もっと多くの教員が組合に加入してくれなければ話にならないんですが、そういう自覚を持っている教員が果たしてどれくらいいるのか・・・

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2016年9月 5日 (月)

「中立」という欺瞞

7月の参院選で自民圧勝。
その後、色々とやりたい放題してくれちゃっているので、去年書いた の記事が、俄然真実味を帯びてきました。

すぐにでも批判記事を書きたかったんですが、あまりにも信じがたいことが次々と起こり、ことの推移について行けないのと、現実を受け入れられないのとで、しばらくなにも書けませんでした。ようやく書けるようになったのは、「もはや“あの時代”の再来は確定だ」という諦観によるものです。

さて、その「信じがたいこと」のひとつ。
参院選の期間中には、「学校教育における政治的中立性についての実態調査」と称し、“密告フォーム”が立ち上がりました。
この「調査」なるものは「事例が出尽くした」と称してすぐに終了しましたが、多くの批判があったので引っ込めたというのが正解でしょう。というか、こんなことやって批判が出ないと思っていたのだとしたら、その想像力のなさ、浅はかさには呆れるしかありません。
「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」を募集するとして、「いつ、どこで、だれが、何を、どのように」を明らかにして入力してください、というものですが、その趣意文にはとんでもないことが書いてありました。

党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」、あるいは「子供たちを戦場に送るな」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。
そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いいたします。

というものですが、まず驚くのが、「中立性を逸脱した教育」の事例として、「子供たちを戦場に送るな」という言葉を挙げていることです。教育現場で「戦場に送るな」と主張することは不適切だって、あなた、本気ですか? これもう完全に戦時中の思想ですよね。最初にこれを見たときは、自民党を批判するために作られた偽サイトかと思ったくらいです。まさか、本当にこんなことを書くとは・・・
去年の安保法の強行採決批判に対し、「戦争法というレッテル貼りをするな」と反論していましたが、つい本音が出てしまったということでしょう。安保法=戦争法ということを、自ら認めてしまったも同然です。
そのことは、この文章が(批判回避のために)書き換えられたことからも首肯できます。しかも、この部分を「安保関連法は廃止にすべき」と書き換えたわけですから、なんというわかりやすさ。ここまで開き直られると、呆れるのを通り越して、もはや清々しくさえ思えてきます。
確かに、「安保関連法は廃止にすべき」だけであれば、特定の立場からの政治批判とも判断できるので、「中立性を欠く」とは言えるかもしれません。しかし、「子供たちを戦場に送るな」をこのように書き換えたという文脈に置けば、さすがにまずいと思ったのでしょう。おそらく、こっそり書き換えるつもりだったのでしょうが、私はリアルタイムでこれが書き換えられるのを目撃していましたからね。そして、ネット上にもその書き換えについての批判があふれていました。
また、これが最初から「安保関連法は廃止にすべき」だったとしても、問題はあります。ご存じのように安保法は、違憲であるとの多くの批判を無視したなりふりかまわぬやりかたで強行採決されたわけです。つまり、安保法の肯定は、あのような醜いやりかたの肯定でもあります。そういう批判を無視して安保法を肯定することも、当然「中立」ではないわけです。
で、最終的にはこれも削除され、「教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です」だけとなりました。
結局、具体例を挙げることができず、「政治的中立はありえない」という抽象的な言葉をもって「中立性を逸脱した教育」だというトートロジーに陥っているわけですから、あまりにもお粗末。程度が知れますね。

もっとも、自民党の言う「中立性を欠く」というのは、「自民党を批判する」というのと同義ですから、額面通り受け取れないのは言うまでもないことですが、そんなあからさまなことは書けないので、「中立」という名のもとに、もっとらしいことを言おうとしたに過ぎません。本音は、言うまでもなく「我々を批判するな」ということ。要するに独裁です。
だいたい、政治的中立性を確保せよと、特定政党が言っている時点で中立でもなんでもないわけですよ。国民をバカにするのもいい加減にしろと。・・・もっとも、これを見てもバカにされていることに気付かない国民が多いというのも問題なのですが。

この調査の目的として、選挙権が18歳に引き下げられ、参院選前後に高校等で混乱がなかったかを調べるためであるという説明がなされたようですが、「学校教育における」としか書いていないので、大学教育における事例までも、調査=監視対象になってしまう可能性も十分にあります。
例えば、大学に籍を置く憲法学者が、憲法学者として「安保法は違憲である」という見解に至り、それに基づいて「(違憲の)安保法は廃止にすべき」と主張するのは、研究者として当然のことです。むしろ、政権への忖度でそういう主張ができなくなってしまったら、これはもう学問の自由の侵害であり、思想統制以外のなにものでもありません。
もちろん、ことは憲法学者や、あるいは政治学者等にとどまるものではありません。研究者としての主張が、政権批判と見なされうる学問領域はいくらでもあります。
例えば、古典文学研究者が、近代における古典の政治利用とか、神話の捏造とかいうことを講じたら、展開によっては政権批判と捉えられることもありえるでしょう。現に私は、皇国史観と近代神話に関わる内容の授業をして、授業評価アンケートに「政治的に偏向した授業」と書かれました。
そもそも大学というのは、研究者である教員が、それぞれの研究成果を教育に還元する場ですから、偏向もなにも、教員が独自に学説を整理したり、自説を述べたりすることは当たり前です。それを偏向だと言う人は、大学というもの、学問というものを理解していないということになります。こちらは、好きか嫌いかという話をしているわけではなく、研究者として学説を開陳しているのです。
しかし、自民党の本音は、研究者にも圧力をかけたいのでしょう。あえて「学校教育における」と、大学も対象であると読めるような書き方をし、政権批判に繋がりうる内容の授業を大学からも排除できるような環境づくりを目指しているとしか思えません。もはや、天皇機関説事件のようなことが、いつ起こっても不思議ではありません。

もっとも、この密告フォーム設置以前から、こういう社会にはなっていましたけどね。

去年、多くの憲法学者が安保法案は違憲だと主張していたとき、憲法の専門家でもなんでもない連中が、「憲法学者は机上の空論ばかり言って現実がわかっていない」「日本の安全保障が脅かされている国際情勢をわかっていない」という類いの批判をしていました。素人が専門家に対し、臆面もなく。まさに反知性主義というやつです。学問というものに対する敬意も理解もまったくない。
憲法学者が、これまでの条文解釈の蓄積も、そして国際情勢も政治動向も歴史的背景もなにも考慮に入れず、単に条文のみを読んで適当に自説を述べているだけだとでも思っているのでしょうが、そんなものが学問であるわけないだろ、ボケが。
いえ、別に学問を権威化し、学者の言葉にひれ伏せということではありません。しかし、学問というものが、そんなに浅いものだと思われても困ります。研究者がひとつの学問的判断を下すには、先行研究の精査、膨大な事例の収集、分析、解釈、それらの蓄積と体系化、論理の整合性の検証・・・等々、気の遠くなるほどの手続きが必要です。確かに、研究者でなければ実感として理解できない面もあるかもしれませんが、しかし少なくとも、そういう研究者の言葉の“重み”というものは、ちょっと想像力を働かせてみれば、研究者でなくともわかることではないでしょうか?
しかし現実は、研究者の言葉を、ネット上にあふれかえる何の根拠もない言説と等価のものと捉えた上で、そのなかから好き嫌いで取捨選択しているだけとしか思えない人が少なくありません。

また、ここ数年の傾向でしょうか、「偏向」という言葉の濫用も目立ってきています。
一方の主張だけを採り上げ、都合の悪い情報を無視するのは、確かに中立性を欠く偏向した態度ですが、「中立」という美名のもとに、自分の意にそぐわぬ主張(その主張が、いかに客観的な分析を経た学問的な裏付けのあるものであっても)を「偏向だ」と言って、議論もせずに排除するというやり方です。
政治批判をするなら政策の内容で議論すべきなのに、それすらせずに、気に入らない意見に対しては、鬼の首を取ったかのように「偏向」「偏向」。しかも、この言葉を使うと、一見もっともそうな印象を与えるので、議論する能力がなくても、相手にダメージを与える効果があります。よくよく検討すればなんでもないことでも、「偏向」というわかりやすい言葉によって覆い隠されてしまうんですよね。そして、それに対する批判を受けるのを恐れ、個人も企業も学校もメディアも、下手なことを言わないように自粛する。
某大臣の「偏向報道は電波停止」という発言などは、成熟した民主主義国家では、失笑ものの取るに足りない発言として消えてしまうはずですが、この無知まる出しでヤクザまがいのトンデモ発言が受け入れられ、それなりの影響力を持ってしまう=脅しとして通用してしまうというのですから、もうほとんどマンガです。

そして、挙げ句の果てにはテロ対策という名目で、何度も廃案になった共謀罪を再提出。要するに、治安維持法の復活ですよ。彼らの目的は。
自民信者などは、「これに反対しているのはテロをしようと思っている危険な人たちだけで、善良な市民は反対する理由がない」などと言っていますが、本気でそう思っているのだとしたら救いようがありません。治安維持法が、どのような経緯・名目で制定され、どのような結果をもたらしたのか、知らないのでしょうか? 歴史教育の重要性を改めて感じるとともに、その無力さに打ちのめされます。

ここまで腐ってしまったこの社会において、我々研究者にできることはなんでしょうか。それをしっかり見きわめていきたいと一年前に書きました。
少なくとも、自分の教え子たちには(どの政党を支持しようと自由ですが)、ここに書いたことの意味をしっかり受け止めてもらいたい。研究者でなくとも、学問の重みというものを理解し、国民を騙そうとしている政治家や、それに迎合する人々の“都合のよい言葉”を見抜ける人間になってほしい。
私自身も、“空気を読んで”あるいは“保身のために”研究者としての信念を捨てるようなことは絶対にしない。
・・・そう思いながら、この一年を過ごしてきました。
教育者として、研究者として、当たり前のことではありますが、しかし、そのスタンスを貫くことは、どんどん難しくなってきています。
確実に、“あの時代”へと突き進んでいることは間違いありません。

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2016年6月20日 (月)

初めての休講

5月末から毎週、教育実習訪問指導に行っています。
今年は10人で9校なので、調整は相当に難航しましたが、研究日だけでなく、会議日や授業日の空き時間も使うことで、なんとかすべてを訪問する日程を組みました。
最初は週1~2校で済みましたが、先週は月~水に3校訪問し(うち2校は訪問後に大学に戻り)、木金授業で土曜は学会。
そして今週は、月曜授業から、そのまま2泊の出張に出かけ(遠方のため前泊の必要な2校に2日連続)、木金授業で(あと団体交渉もあったかな)、まったく休めないまま土日は東京で学会というスケジュール。
さらに来週からはリレー講義で自分の担当(11週目~最終週)が回ってくるため1コマ増で8コマ。新カリ科目の準備が自転車操業であることに加え、このリレー講義も専攻カリキュラムに生じた偏向をせめて私の担当科目内で少しでも是正すべく今年から専門外のネタを仕込むため、準備に追われています。
さすがにどこかに休みを入れないと、このままでは早晩行き詰まるだろうな、と思っていました。

とはいえ、そんな儚い願いは実現できるあてもない揮発性の妄想としてすぐに忘れ去り、なんとか帳尻を合わせつつ日々を過ごすことになるのが常です。しかし今回は、きわめて例外的かつ不本意な形で、それが叶うことになりました。
詳しくは書けませんが、昨日からしばらく休養を取らざるを得ないような身体的な状態に陥ってしまい、木曜に復帰できることを目指します。
昨日は日曜のため、救急病院に行ってきましたが当番医が専門外だったので応急処置にとどまり、今日、改めて検査。そのため、今日、初めて授業を休講にしました。

2002年に非常勤講師として初めて大学の教壇に立ち、その年に1回休講をしましたが、自己都合による休講はそれ以来ですね。
といっても、最初の非常勤先での休講は、まだ大学が牧歌的だった時代の名残で、特に理由もなく休講するという文化が残っていた時期なので、病欠ではありません。
それを除いては、授業に穴を空けたのは、大学教員生活15年目にして今日が初めてでした。授業以外の業務ならば、何度か病欠その他がありましたが、授業だけは絶対に休まぬようにしていたのに、残念。できれば、これを最後にしたいものです。

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2016年5月22日 (日)

6年目

今の大学に来て6年目となります。

某学会事務局業務は無事に新事務局に引き継ぎました。
私が引き受けた時は、前事務局業務に関わった人にも手伝ってもらったので、それなりに対応できたのですが、今度の引き継ぎでは地理的に離れていることもあり、そうはいきません。なので、今まで口伝や慣例でやっていたことも含め、しっかりとマニュアル化してから引き継ぎました。
とはいえ、実際には連日メールや電話で新事務局と対応しており、まだまだのんびりできません。
私が事務局を引き受ける前には、事務局業務の負担を分散し、院生が少ない(いない)環境でも事務局を引き受けられる体制づくりが必要と考え、複数大学事務局分担案を出したりもしましたが、実際にやってみて、そんなのはただの理想論だということを思い知りました。
すでに小委員会を設けて、そちらで進めている業務については分担も可能ですが、それ以外の仕事は、窓口となる事務局で一元化しないと、かえって大変です。やはり、院生に協力を(ほぼ)頼めない環境で事務局を引き受けたら、その期間は研究・教育や種々の校務、そしてプライベートを相当犠牲にして滅私奉公のつもりで臨まないと、絶対に事務局は運営できないということがイヤというほどわかりました。
どのくらい大変だったかというと、それなりの手当てが出る某校務を時給換算し、それを事務局業務に当てはめたら、2年数ヶ月(引き継ぎ前後も含む)で国立大学の准教授クラスの年収を確実に超えるくらいは働いたと思います。それを、本務校の仕事とは別に、無償でやっていたわけですからね。いやもう本当に大変でした。
一度事務局を引き受けてしまうと、またいずれ狙われる可能性が高くなりますが(他学会も含め)、もう二度とやりません。

さて、それはそうと、今年のゼミですが、7期生(新3回生)は13人です。
6期生は昨年度は14人でしたが、他ゼミから1人移動して来たのと、留年2人を加え、17人。教職志望は2人脱落したけれど、それでも10人。専攻内最多です(おそらく学部内でも)。
なるべく全員の教育実習訪問指導に行こうと思っていますが、行ける日が週に1日か2日しかないので、調整に難航しています。旅費以外の手当ては出ない業務で、義務でもないのですが、ゼミ生が教壇に立つ姿を見るのが楽しみなので、行ける限りは行くようにしています。

今年の授業は、前期は7コマ+リレー講義。
新カリキュラム1年目のうちに来年度以降の担当変更を予想し、かつ、政治的な理由で他部署に取られていたコマを取り戻すため、1コマ増担となってでも私が担当したかった講義を押さえたため、このようになりました。
増担分は、来年度には新カリ切り替えで1コマ消えるため、担当コマ数は元に戻りますが、うちの専攻が本来管理していたコマをすべて取り戻すためには、また別の手段を講じます。

ところで、学会事務局業務の負担過重のため昨年度は外してもらっていた某校務、今年は復帰します。
この校務もかなり負担が大きいのですが、待遇改善のため、かなりタフな交渉をしてきた成果もあって、ようやく改善に向けての動きが出てきました。しかし、抜本的な改善にはまだ遠く、教員ひとりひとりが問題を自覚しないことにはどうにもならないでしょう。

あと、専攻内で慣例として引き継がれてきた某業務、これは所定業務ではなく、完全にボランティアとしてやっていたものですが、その在り方に疑問を持ち、思い切って休止にしてしまいました。このまま廃止にするつもりです。
この業務に限ったことではありませんが、本当に教員がやる必要があるのか、本当にこの条件でよいのか、業務命令者は誰なのか、そういうことに無自覚なまま、与えられた仕事をこなすという働きかたをして疑問すら抱かないという教員が多すぎます。まあ、目の前の仕事をこなすのが精一杯で、そんなことを考える余裕もないわけですが。大学側も、教員が裁量労働制であることに付け込んで、何でもかんでもやらせようとする。「ほんとに教員ってチョロいよな」と思っているに違いありません。
専任教員は、研究と教育以外にも山ほど仕事があるのは当然ですが、しかし、本当にそれらがすべて自分が引き受けなければならない仕事なのかどうか、しっかり考えるべきです。

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2016年3月13日 (日)

奴隷根性

いやはや、ブラック大学である前の職場から逃げてきて、ようやく安息の地にたどり着いたと思ったら、こっちはさらに上を行くブラック大学だったとはね・・・

ところで、プロフィール欄に「本ブログの記事の40パーセントはフィクションです」と書いていますが、新設カテゴリー「独裁大学での身の処し方」に書くことに限っては、すべてフィクションとしてお読みください。

さて、今の職場に来て5年が経とうとしています。
同僚にも恵まれ、当初は本当によい職場に来ることができたと思っていました。
確かに雑務は多いけど、それは専任教員ならば当たり前のことで、むしろ校務に忙殺されることこそ専任教員である、などというわけのわからない満足感に浸り、気付いてみれば依頼された仕事はひとつも断らず、そのうえ、段取りの悪い人に仕事を任せるくらいならば自分でやったるという性分が祟って、雑務まみれになっていました。
しかし、ここ数年、本学は知名度をどんどん上げており、自分もそういうことに貢献しているのだという思いで、雑務の多さを喜んですらいるような状態でした。はっきり言って、奴隷の鎖自慢というやつですね。

しかし、一昨秋以降、そういう考えを改めました。
転機となったのは、まさに“大学の闇”というにふさわしい事態に接し、それをめぐって法人に反発する人/迎合する人/無関心な人というスタンスがはっきりと見て取れたことです。

その、“闇”の具体的な内容については、またいずれ書きますが、とりあえず今日は、それ以降のことをいくつか。

例えば、学校教育法改正(学長権限の強化)にともない、多くの大学が昨春から学則を改正しました。しかし、私大の多くは、教授会権限を不当に縮小せぬよう工夫しています。
ところが、本学ではこれに便乗し、もともと小さかった教授会権限をさらに縮小するという改悪を、しかも教授会の審議を経ずに強行するという暴挙に出ました。
このやり方が、文科省の指導違反の可能性があるので、教職員組合は文科省に陳情書を出し、また団体交渉でも改悪の撤回を求めています。

特に問題となるのが、「教授会での決定」が「学長への意見」と変更された点です。
法人側は、「学教法改正に合わせて文言を修正しただけで、実質的にはなにも変わっていない」と説明しました。要するに、「労働条件に関わる変更ではないので、教授会での審議は必要ない」と言いたいわけですね。

そこで私は、団交の席上、法人側が突っ込まれたくないであろう一昨秋の某“闇”案件の話題をあえて出しました。

「なるほど、労働条件に関わる変更ではないとおっしゃる。では、例の件についてはどうでしょう? あの受け入れをめぐってうちの学部は、色々な学科であれこれ調整したり、時間をかけて議論したりして、それでも折り合いが付かなかったから受け入れを拒否したわけですよ。でも、新学則のもとでああいうことがあったら、そうはいかないと思うんですよね。あれだけ大変な思いで否決したことでも、それが(理事会の傀儡である)学長への“意見”ということになったら、ひっくり返されてしまうんですよ。学部ではどう頑張っても調整できないから否決したのに、それを差し戻されたら、それでも労働条件に関わらないって言えますか?」と。

これに対し、法人側は予想以上に慌て、とりあえず保留となりました。
なるほど、やっぱりこの件で騒がれたくないんだな。よしよし、これからも利用させてもらいましょう。

しかし、うちの教員の大半は、法人の言いなりになるイエスマンなので、私が団交でこんなやりとりしているのを知ったら泡を食って卒倒するでしょうね。

また、こんなこともありました。
法人が進めたいと思っている別の某案件につき、ある学部では、教授会で審議したら反対意見が出て否決されることを恐れた学部長が、「これは上で決まったことですので」と言って“報告”で済ませてしまいました。審議事項を、学部長の一存で報告事項に変えたわけです。そこまでして法人にシッポを振りたいという犬の気持ちは私にはまったく理解できません。
この学部の組合員がこのことを問題にしたので、うちの学部ではさすがに報告で済ませるわけにはいかず、かなり時間をかけて審議しました。
しかし、その際に出た意見は、「この大学では上で決まったことに反対しても無駄」「反対したらうちの学部が睨まれてしまう」「もっと現実主義で行きましょう」・・・という救いようのないものが少なくありませんでした。
現実主義とは笑わせてくれる。そういうのは現実主義ではなく「奴隷根性」というんですよ。
いったいこの人たちは、なにをそんなに恐れているんでしょうか? 理事会? それとも、うちの大学と密接な関係にあるあの政治家?
いずれにしても、教育や研究よりも、そんなことのほうが大事だという腰抜けどもを、私は大学教員と認めることはできない。学生と、そして学問を、そんなヤツらの手に委ねるわけにはいきません。

なお、後日、団交でこのことを採り上げた際、私は法人側出席者に向かってこう言いました。

「この件をうちの学部で審議した際、『上で決まったことには逆らえない』とか『反対しても無駄』とかいう意見が出たんですよ。多くの教員が、そういう考えなんです。いいんですか、教員と法人がこんな関係で? うちはそういう独裁大学なんですか? どうなんですか?」と。

まあ、独裁者かと問われ、それを爽やかに肯定する独裁者もなかなかいないでしょうから、「そんなことありません、独裁ではありません」と言ってましたけどね。
しかし、団交の席上で「独裁ではない」と言い、法人と教員は支配・被支配の関係ではないと明言したことは大きいですね。言質を取りました。

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2015年12月19日 (土)

暮れる前にいくつかメモ

ほとんど更新できないまま、気がつけばもう今年も暮れようとしています。
忙しいということもありますが、とてもここには書けないような学内のゴタゴタなどもありまして。
まあ、そのことはほとぼりが冷めたら少しずつ書くかもしれません。

さて、そう言っている間にも、時は流れていきます。
毎年のことですが、色々なトラブルもあったけど、卒論も無事に出揃いました。
これから16本読まなければならないわけですが、学内外の査読業務と被らない年末年始に読み終えてしまいましょう。
卒論発表会は、年明けの授業だけでは足りないので、+2コマ分ほど時間を取らないと。

某学会も、はやいもので事務局を引き受けて2年。
先々週、最後の例会が終わりました。
例会・大会はもうありませんが、次の事務局に引き継ぐための書類整理がとんでもなく大変そうです。
代表委員として、学会をよりよいものにすべく、色々な改革をしてきましたが、それを今後も(事務局が移っても)維持していけるようにしなければなりません。
事務局引き継ぎの時期も、3ヶ月ずらしました。
私は2014年1月から事務局を引き受けています。4月以降の業務にスムーズに取りかかれるようにということで、12月例会終了後すぐに事務局移動というのが慣例でしたが、それだと会計年度とズレが生じて不便なので、事務局移動も会計と同様に4月にしたわけです。
1~3月は例会等がないので、会計以外のことについてはあまり状況は変わりませんが、それでも12月のうちに慌てて引き継ぎをしなくて済んだので、ずいぶん楽です。その分、年明けの作業が大変ではありますが。
4月例会の準備も、現事務局で進めておかなければなりませんしね。

そういえば、この大学に来てもう5年が経とうとしています。
前の職場では准教授5年で教授昇任審査でしたが、うちの大学では6年かかります。
ただ、前職で半年だけ准教授をしているので、これもカウントすれば来年の9月末で丸6年。10月から教授になるべく、4月から審査開始ということはできないものかと思い、確認してみましたが、どうも年度の途中での昇任というのは認めていないみたいです。
講座制をとっている医学部は、流動性に対応すべく例外的に認めているようですが、他学部ではそういうことはやっていない、と。
とはいえ、学則で明文化さていないので、組合で強硬に交渉すれば可能だとは思いますが、半年早く昇任したところであまり得るものはないのでやめておきましょう。今の専攻主任の任期が来年の9月末までなので、10月に教授になった途端に主任を押し付けられるという事態も回避したいし。
そういえば、前職は10月着任だったので、准教授昇任審査まで2年のところ、やはり年度途中の昇任はないということで、2年半かかったんですよね。そして、前職退職から今の職場に来るまでの間に半年のブランクもあるし。
そういう半端な履歴も全部カウントされていれば、すでに教授になっていたのかもしれませんが、まあいいでしょう。回り道も人生。

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