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2016年9月

2016年9月 5日 (月)

「中立」という欺瞞

7月の参院選で自民圧勝。
その後、色々とやりたい放題してくれちゃっているので、去年書いた の記事が、俄然真実味を帯びてきました。

すぐにでも批判記事を書きたかったんですが、あまりにも信じがたいことが次々と起こり、ことの推移について行けないのと、現実を受け入れられないのとで、しばらくなにも書けませんでした。ようやく書けるようになったのは、「もはや“あの時代”の再来は確定だ」という諦観によるものです。

さて、その「信じがたいこと」のひとつ。
参院選の期間中には、「学校教育における政治的中立性についての実態調査」と称し、“密告フォーム”が立ち上がりました。
この「調査」なるものは「事例が出尽くした」と称してすぐに終了しましたが、多くの批判があったので引っ込めたというのが正解でしょう。というか、こんなことやって批判が出ないと思っていたのだとしたら、その想像力のなさ、浅はかさには呆れるしかありません。
「政治的中立を逸脱するような不適切な事例」を募集するとして、「いつ、どこで、だれが、何を、どのように」を明らかにして入力してください、というものですが、その趣意文にはとんでもないことが書いてありました。

党文部科学部会では学校教育における政治的中立性の徹底的な確保等を求める提言を取りまとめ、不偏不党の教育を求めているところですが、教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」、あるいは「子供たちを戦場に送るな」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です。
学校現場における主権者教育が重要な意味を持つ中、偏向した教育が行われることで、生徒の多面的多角的な視点を失わせてしまう恐れがあり、高校等で行われる模擬投票等で意図的に政治色の強い偏向教育を行うことで、特定のイデオロギーに染まった結論が導き出されることをわが党は危惧しております。
そこで、この度、学校教育における政治的中立性についての実態調査を実施することといたしました。皆さまのご協力をお願いいたします。

というものですが、まず驚くのが、「中立性を逸脱した教育」の事例として、「子供たちを戦場に送るな」という言葉を挙げていることです。教育現場で「戦場に送るな」と主張することは不適切だって、あなた、本気ですか? これもう完全に戦時中の思想ですよね。最初にこれを見たときは、自民党を批判するために作られた偽サイトかと思ったくらいです。まさか、本当にこんなことを書くとは・・・
去年の安保法の強行採決批判に対し、「戦争法というレッテル貼りをするな」と反論していましたが、つい本音が出てしまったということでしょう。安保法=戦争法ということを、自ら認めてしまったも同然です。
そのことは、この文章が(批判回避のために)書き換えられたことからも首肯できます。しかも、この部分を「安保関連法は廃止にすべき」と書き換えたわけですから、なんというわかりやすさ。ここまで開き直られると、呆れるのを通り越して、もはや清々しくさえ思えてきます。
確かに、「安保関連法は廃止にすべき」だけであれば、特定の立場からの政治批判とも判断できるので、「中立性を欠く」とは言えるかもしれません。しかし、「子供たちを戦場に送るな」をこのように書き換えたという文脈に置けば、さすがにまずいと思ったのでしょう。おそらく、こっそり書き換えるつもりだったのでしょうが、私はリアルタイムでこれが書き換えられるのを目撃していましたからね。そして、ネット上にもその書き換えについての批判があふれていました。
また、これが最初から「安保関連法は廃止にすべき」だったとしても、問題はあります。ご存じのように安保法は、違憲であるとの多くの批判を無視したなりふりかまわぬやりかたで強行採決されたわけです。つまり、安保法の肯定は、あのような醜いやりかたの肯定でもあります。そういう批判を無視して安保法を肯定することも、当然「中立」ではないわけです。
で、最終的にはこれも削除され、「教育現場の中には「教育の政治的中立はありえない」と主張し中立性を逸脱した教育を行う先生方がいることも事実です」だけとなりました。
結局、具体例を挙げることができず、「政治的中立はありえない」という抽象的な言葉をもって「中立性を逸脱した教育」だというトートロジーに陥っているわけですから、あまりにもお粗末。程度が知れますね。

もっとも、自民党の言う「中立性を欠く」というのは、「自民党を批判する」というのと同義ですから、額面通り受け取れないのは言うまでもないことですが、そんなあからさまなことは書けないので、「中立」という名のもとに、もっとらしいことを言おうとしたに過ぎません。本音は、言うまでもなく「我々を批判するな」ということ。要するに独裁です。
だいたい、政治的中立性を確保せよと、特定政党が言っている時点で中立でもなんでもないわけですよ。国民をバカにするのもいい加減にしろと。・・・もっとも、これを見てもバカにされていることに気付かない国民が多いというのも問題なのですが。

この調査の目的として、選挙権が18歳に引き下げられ、参院選前後に高校等で混乱がなかったかを調べるためであるという説明がなされたようですが、「学校教育における」としか書いていないので、大学教育における事例までも、調査=監視対象になってしまう可能性も十分にあります。
例えば、大学に籍を置く憲法学者が、憲法学者として「安保法は違憲である」という見解に至り、それに基づいて「(違憲の)安保法は廃止にすべき」と主張するのは、研究者として当然のことです。むしろ、政権への忖度でそういう主張ができなくなってしまったら、これはもう学問の自由の侵害であり、思想統制以外のなにものでもありません。
もちろん、ことは憲法学者や、あるいは政治学者等にとどまるものではありません。研究者としての主張が、政権批判と見なされうる学問領域はいくらでもあります。
例えば、古典文学研究者が、近代における古典の政治利用とか、神話の捏造とかいうことを講じたら、展開によっては政権批判と捉えられることもありえるでしょう。現に私は、皇国史観と近代神話に関わる内容の授業をして、授業評価アンケートに「政治的に偏向した授業」と書かれました。
そもそも大学というのは、研究者である教員が、それぞれの研究成果を教育に還元する場ですから、偏向もなにも、教員が独自に学説を整理したり、自説を述べたりすることは当たり前です。それを偏向だと言う人は、大学というもの、学問というものを理解していないということになります。こちらは、好きか嫌いかという話をしているわけではなく、研究者として学説を開陳しているのです。
しかし、自民党の本音は、研究者にも圧力をかけたいのでしょう。あえて「学校教育における」と、大学も対象であると読めるような書き方をし、政権批判に繋がりうる内容の授業を大学からも排除できるような環境づくりを目指しているとしか思えません。もはや、天皇機関説事件のようなことが、いつ起こっても不思議ではありません。

もっとも、この密告フォーム設置以前から、こういう社会にはなっていましたけどね。

去年、多くの憲法学者が安保法案は違憲だと主張していたとき、憲法の専門家でもなんでもない連中が、「憲法学者は机上の空論ばかり言って現実がわかっていない」「日本の安全保障が脅かされている国際情勢をわかっていない」という類いの批判をしていました。素人が専門家に対し、臆面もなく。まさに反知性主義というやつです。学問というものに対する敬意も理解もまったくない。
憲法学者が、これまでの条文解釈の蓄積も、そして国際情勢も政治動向も歴史的背景もなにも考慮に入れず、単に条文のみを読んで適当に自説を述べているだけだとでも思っているのでしょうが、そんなものが学問であるわけないだろ、ボケが。
いえ、別に学問を権威化し、学者の言葉にひれ伏せということではありません。しかし、学問というものが、そんなに浅いものだと思われても困ります。研究者がひとつの学問的判断を下すには、先行研究の精査、膨大な事例の収集、分析、解釈、それらの蓄積と体系化、論理の整合性の検証・・・等々、気の遠くなるほどの手続きが必要です。確かに、研究者でなければ実感として理解できない面もあるかもしれませんが、しかし少なくとも、そういう研究者の言葉の“重み”というものは、ちょっと想像力を働かせてみれば、研究者でなくともわかることではないでしょうか?
しかし現実は、研究者の言葉を、ネット上にあふれかえる何の根拠もない言説と等価のものと捉えた上で、そのなかから好き嫌いで取捨選択しているだけとしか思えない人が少なくありません。

また、ここ数年の傾向でしょうか、「偏向」という言葉の濫用も目立ってきています。
一方の主張だけを採り上げ、都合の悪い情報を無視するのは、確かに中立性を欠く偏向した態度ですが、「中立」という美名のもとに、自分の意にそぐわぬ主張(その主張が、いかに客観的な分析を経た学問的な裏付けのあるものであっても)を「偏向だ」と言って、議論もせずに排除するというやり方です。
政治批判をするなら政策の内容で議論すべきなのに、それすらせずに、気に入らない意見に対しては、鬼の首を取ったかのように「偏向」「偏向」。しかも、この言葉を使うと、一見もっともそうな印象を与えるので、議論する能力がなくても、相手にダメージを与える効果があります。よくよく検討すればなんでもないことでも、「偏向」というわかりやすい言葉によって覆い隠されてしまうんですよね。そして、それに対する批判を受けるのを恐れ、個人も企業も学校もメディアも、下手なことを言わないように自粛する。
某大臣の「偏向報道は電波停止」という発言などは、成熟した民主主義国家では、失笑ものの取るに足りない発言として消えてしまうはずですが、この無知まる出しでヤクザまがいのトンデモ発言が受け入れられ、それなりの影響力を持ってしまう=脅しとして通用してしまうというのですから、もうほとんどマンガです。

そして、挙げ句の果てにはテロ対策という名目で、何度も廃案になった共謀罪を再提出。要するに、治安維持法の復活ですよ。彼らの目的は。
自民信者などは、「これに反対しているのはテロをしようと思っている危険な人たちだけで、善良な市民は反対する理由がない」などと言っていますが、本気でそう思っているのだとしたら救いようがありません。治安維持法が、どのような経緯・名目で制定され、どのような結果をもたらしたのか、知らないのでしょうか? 歴史教育の重要性を改めて感じるとともに、その無力さに打ちのめされます。

ここまで腐ってしまったこの社会において、我々研究者にできることはなんでしょうか。それをしっかり見きわめていきたいと一年前に書きました。
少なくとも、自分の教え子たちには(どの政党を支持しようと自由ですが)、ここに書いたことの意味をしっかり受け止めてもらいたい。研究者でなくとも、学問の重みというものを理解し、国民を騙そうとしている政治家や、それに迎合する人々の“都合のよい言葉”を見抜ける人間になってほしい。
私自身も、“空気を読んで”あるいは“保身のために”研究者としての信念を捨てるようなことは絶対にしない。
・・・そう思いながら、この一年を過ごしてきました。
教育者として、研究者として、当たり前のことではありますが、しかし、そのスタンスを貫くことは、どんどん難しくなってきています。
確実に、“あの時代”へと突き進んでいることは間違いありません。

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