旧記抄出

2007年4月27日 (金)

旧記 359

さて、研究者名簿への登録の件、科研担当者に聞いてみました。
「うちの大学では、非常勤講師は登録できません」とのことです。

「研究機関に、当該研究機関の研究活動を行うことを職務に含む者として、所属する者であること(有給・無給、常勤・非常勤、フルタイム・パートタイムの別を問わない。また、研究活動以外のものを主たる職務とする者も含む。)」ということで、非常勤でも一般の科研に応募できるようになったのは去年からだと思ってましたが、実は一昨年からそうなっていたそうです。ただし、応募に際しては、当該機関の研究者名簿に登録されていなければなりません。
で、非常勤の登録を認めるかどうかについては、各機関の判断にゆだねられるそうで、実際、認めていない機関もけっこうあるとのこと。科研担当者から聞いた範囲では、概して、教員数の多い大手私大は認めてないところが多いようですね。
ということで、非常勤の身分である限り、うちの大学からは(奨励研究を除く)科研には応募できないわけでして、他の非常勤先で認めてくれるところがあればそこで登録し、そこから応募することになります。
去年は「科研応募のチャンスがあったのに知らなくて残念」と思いましたが、非常勤先がうちの大学だけだった去年は、いずれにせよ応募は不可能だったわけですね。チャンスを1回逸したわけではない、という意味では、少しホッとしました。でも、ならば奨励研究に出しておけばよかったという思いもありますが、まあいいか。
さて、連休が明けたら他の非常勤先に確認してみましょうか。

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2007年4月 5日 (木)

旧記 357

さて、新年度。
今年は、出身の某大学含めて3大学で非常勤。まだ専任職には有り付けません。

大学非常勤のみで(あるいは、これを主として)生活するということは、収入面その他でかなり厳しい状況を強いられるわけで、専任教員と比べたら天と地ほどの差があります。そんなことは、この業界の人にとっては言うまでもないことで、特に専任職を得るのがとてつもなく難しい分野にあっては、非常勤生活から脱却し専任になるということは、驚天動地の大事件と言っても差し支えないほどの出来事なのです。

ところが、異業種の人はそう思わない傾向が強いようで、そのあたりの認識の相違に愕然とすることも。
まず、“大学の先生”という認識が先行し、専任か非常勤かという点は小さな違いでしかない、という感じの扱いをされることが時々あります。収入も研究環境も社会保障も段違いで、かつ、非常勤先でそのまま専任になれるというケースはほとんどないのに、「ほう、某大学の先生ですか。すごいですね」的なことを言われた日には、もう恥ずかしくて消え入りそうな勢いです。
実際のところ、フリーターですからね。「フリーターのようなもの」ではなく、語の正しい意味でフリーター。非常勤だけで生活している人を「専業非常勤講師」と言いますが、時に「“賤業”非常勤講師」と言われる所以です。
こうした状況は、Wikipediaの
専業非常勤講師の項目で的確に説明されています。ご承知のように、Wikipediaは誰でも自由に編集できるサイトで、その記述内容は流動的ですから、以下に現時点での取得データを貼っておきます(省略と下線は f による)。

専業非常勤講師
専業非常勤講師(せんぎょうひじょうきんこうし)とは、大学の非常勤講師のみで生計を立てている人物のことである。
目次
(中略)

解説
大学の教員には、正規に大学に雇用されている教員の他、別の職業に就いている人物や他の大学を本務校とする人物など、多様な雇用形態が存在している。正規に大学に雇用されていない教員を「非常勤講師」と呼ぶ。「非常勤講師」の中には別のどこかで正規雇用されている人物も多いが、中には「非常勤講師」の収入だけで生計を立てている人物も存在する。これが「専業非常勤講師」である。
問題
本来、非常勤講師とは大学外の人材の講義を実現する為のある種の非常手段と位置づけられており、「非常勤講師」のみで生計を立てるという事態は想定されていない制度であった。非常勤講師が想定するのは、大学院在籍者や大学院終了直後の若い研究者に教育経験を積ませるとか、研究者ではない人物の経験談を「講義」として学生に聞かせる、あるいは他大学の優秀な研究者の講義を自校の学生にも経験させるなどの状況である。また、従来は非常勤講師を数コマ経験すればどこかの正規雇用ポストが回ってくるというのが日本の研究者の世界であった。
ところが大学院の無軌道な拡充による大学院生の激増と、彼らを研究職以外の雇用に就かせる制度の不在の結果、いつまで経っても正規雇用ポストにありつけない研究者がまとまった数で出現してしまったのである。彼らのうちの一部は研究職に拘り続け、非常勤講師をいくつも掛け持ちしてそれだけで生計を立てようと試みた。こうして出現したのが「専業非常勤講師」であった。
問題は、現在の状況ではどんな優秀な研究者であっても、余程のコネか強運が無い限り、大学院を修了して即専任ポストに就くことは困難であるという点である。こうした状況下では殆どの研究者が多かれ少なかれ非常勤講師を含むアルバイトで数年間を過ごすことになる。また、大学経営も人件費が格段に安い非常勤講師の存在を前提にして成り立っており、非常勤講師という制度を廃止することは難しい。
しかし、近年ではよほど優秀な研究者であってもなかなか専任教員となれない一方、かつては大した業績が無くとも専任教員となれる時代が存在した為、「研究業績の点で専業非常勤講師に見劣りする専任教員」も珍しく無いような事態となっている。
この問題とは異なるが、大学における助手ポストに関しても、任期制が導入され安定した環境で若手研究者が研究に専念できる場は近年狭くなっている。
(後略)


また、本項には書かれていませんが、似たような立場として「オーバードクター」と「ポスドク」があります。
前者は文字通り余剰博士ということで、博士課程修了(あるいは単位取得退学)後も専任の研究職に就けない人全般を指します。後者「ポスドク」は、即ち「Postdoctor=博士課程修了者」ですが、多くの場合「Postdoctoral Fellow=博士研究員」を指します。博士後の任期付き研究員ですね。
理系の諸分野ではこういうポストが多く、専任職を得るまでの間にいくつものポスドクを渡り歩くというケースが一般的だそうで、そのため、オーバードクターとポスドクとが、ほぼ同義となっているようです。
ところが、文系、特に人文系にはポスドク職はほとんどありません。ほぼ唯一のポスドクが、私も昨年3月までやっていた日本学術振興会特別研究員です。最近では、COEのポスドク(研究員・研究助手等、呼称は色々)なんてものもありますが、どちらも、博士課程修了者の受入先としてはポストの絶対数が足りません。また、これらのポスドクを終えてすぐに専任職に就けるという保証はありませんから、その後も研究を続けるなら、非常勤講師で食いつなぐというのが一般的なパターンでしょうか。もちろん、非研究職に就きながら研究を続けるという道もあります。

さて、こうした境遇から脱却し、晴れて専任の研究職に就くためには、たいていの場合、公募で選ばれなければなりません(もちろん、一本釣りで引き抜かれるような場合もありますが、レアケースですので書きません)。
公募・・・と言っても、大学生の一般企業への就職活動のように、希望するところに自由に応募できるわけではなく、自分の研究領域と合致するポストが空き、かつ、それが公募となるのを待たなければなりません(公募せずに後任を決めたり、あるいはそのポストが廃止されることもあります)。厳密に自分の専門に合致する公募なんて、せいぜい年に2~3件くらいしか出ませんから、若干のズレには目をつぶり、ダメモトで隣接分野の公募にも出すことになります。それでも、年に10件も出せませんけどね。そして、それぞれの公募が何十倍~百数十倍の倍率だったり、場合によっては見せかけの公募だったりすることもあるようで、これを勝ち抜くのは容易ではありません。
D3以降の数年間、相当数の公募に出しましたが、ほとんどが書類審査で落とされてます。面接に残ったのが2回、面接には呼ばれなかったけど最後の数人に残っていたことが後で判ったというケースが2回。
業績は・・・まあ、あるほうだと言われますし、また、約10倍の競争率である学振研究員は2勝1敗の勝率ですが、それでもこの程度の戦績です。やれやれ、先は長そうだな・・・。

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2007年3月21日 (水)

旧記 355

17日に「王権とレガリア」シンポにて報告してきました。
参加者は約80人。文学以外では史学系の研究者も多かったようです。

「三種神器」「如意宝珠」「楽器」「書物」をそれぞれ〈レガリア〉として捉え、それを起点として〈王権〉およびそれを取り巻く〈文芸〉のありようを見てゆくという試みなんですが、その中で私は宝珠担当でした。
宝珠については今まである程度は論じてきましたし、今後も重要なテーマの一つとして意識しています。また、今回問題にした伊勢参宮は、これまで論じてきた南都の宗教言説と室生山宝珠の問題とをリンクさせる重要なポイントでもあります。
しかし、シンポという“場”を借りてお話しさせていただくわけですから、統一テーマに見合った形に組み立てる必要があります。
これまでの自分の宝珠論は、それを〈レガリア〉と位置付けた上で展開してきたわけではないし、そもそも〈王権〉という言葉は自分の語彙にはないんですよね。さらに言えば、〈文芸〉という言葉も使いません。〈中世〉は使うことは使うけれど、あくまで時代認識のための便宜的な概念でしかないと割り切った上での使用です。
・・・と、そんなことを言い出すと「の」と「と」しか残らなくなってしまいますし、それぞれを一つ一つ自分なりに定義し直していたらいつまで経っても伊勢参宮の話に辿りつきません。なので、あえてここでは深く考えずに行きましょう。

しかし、少なくとも「kingship」を何の疑問もなく「王権」と訳すこと、およびそれを前提とした上で議論が展開されているという現状は、見直す必要があると考えます。
『平家』等にも用例があり、日本語として定着していた「王権」という語が、「kingship」の含意する全てを受け止めるに十分であったという保証はありませんし、逆もまた然りです。むしろ、重ならない部分が多かったと考えるほうが自然でしょう。
しかし、「王権=kingship」という安易な認識が、「王権」という日本語の中に、西欧の王権論の展開の中で生成した概念の流入を容易にさせてしまうわけです。
こうした訳語の対応の恣意性、あるいはそれによって保証される認識基盤の脆弱性という問題は、もちろんどんな言葉についても当てはまるわけですが、ここで「王権」が特に問題となるのは、日本の「王」という存在の特殊性に起因します。
それは、天皇制のありようだとか、将軍も「王」たりうるとか、色々な視点が想定できますが、私が問題にしたいのは〈神〉との位置関係です。
絶対王政の根拠となった「王権神授説」、あるいは人類学者のいう「王」と「神」との相互補完的な関係、等々。日本の王と神――例えば天皇と天照大神――の関係を論ずる際に、こうした外来の王と神の概念を使って説明がなされ、それによって理解が深まることもあるでしょう。しかし、西欧の「王―神」の関係が、「天皇―天照大神」の関係と同一であるはずがありませんし、それ以前に、「神=God」という認識をまずは疑う必要があるのではないでしょうか。
ザビエルは日本での布教に際し、初め「Deus」を「大日」と訳していましたが、後に誤りに気付き、原語のまま使うことにしました。また、キリシタン文献の中には「天主」や「天帝」、あるいは「天神」という訳語もありますが、「神」はありません。しかし、幕末にヘボンが「神」の訳を採用しました。これは、中国における「God」の訳語のユレという問題との関わりからも考える必要があるでしょうが、いずれにせよ“偶然”の結果でしかなかったはずです。すでに世界宗教として「Buddha」という語で認識されていた仏教における“God”が、改めて「God」という訳語を与えられなかったのは当然のこととしても、一国の民族宗教でしかない神祇信仰の“神”が「God」に対応させられるという偶発的な出来事が、その後、永く定着することになったのは、明治に至り廃仏毀釈の嵐が列島を飲み込んでいったという時代背景に起因していたと言えない保証はありません。そういう偶然の積み重ねがなければ、違う訳語が選ばれていたかもしれず、「神」という観念は「God」という語に与えられた認識によって彩られる(あるいは蝕まれる)ことはなかったのではないでしょうか。
さらに、「神話=myth」の問題もあります。「myth」が「神話」という訳語を得たことにより、mythologyの対象が「神」(しかも、多くは記紀神話の神)に限定されてしまい、「神」認識から外れる存在が神話学の対象とされず(少なくとも、なりにくく)、また、神仏習合の一つの精華たる「中世神話」が「中世」という語によって「神話」と峻別されるという事態を引き起こしていることは、もっと注意されて良いと思われます。

・・・いやいや、ずいぶん話が逸れてしまいましたが、言いたいことは単純です。
意識的であれ無意識であれ、多かれ少なかれ西欧の認識をもって〈王権〉や〈神〉という“語”が論じられ、それゆえ、概念が広がっていきました。それが必ずしも悪いとは言えませんが、時に、日本の状況から乖離した認識をもって問題を扱ってしまうことになる危険性と常に背中合わせである、ということでしょうか。



と、そんなことを報告の最初に軽く触れたんですが、時間にして2~3分くらいで簡単に済ませたことは言うまでもありません。メインはもちろん、東大寺再建と宝珠・舎利信仰のお話です。
・・・ですが、ここまで書いたら、もうそっちを書く気力がなくなってしまいました。^^;
いずれ、なんらかの形で自分なりの決着を付けたいと思いますので、今日のところはこれにて失礼いたします。

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2007年1月24日 (水)

旧記 349

22日、図書館のレクチャールームにて月曜講義の補講。複製本を用いて、絵巻の扱い方の実習。
去年は美術史専修室から借りた複製本を使い、通常授業期間に教室でやりました。
今年は、『石山寺縁起』の複製を借りようと思ったら、専修室にないとのこと。図書館にはあるんですが、複製本でありながら貴重書に指定されているため、禁帯出。なので、図書館内で使うことしかできず、やむなくこういう形でやることに。
『石山寺絵巻』4巻(芸術資料刊行会、1923)と『石山寺縁起』1巻(野口聚成堂、1941)の二種。前者が巻第一~第四、後者が巻第五に相当。巻六・七はなし。
ついでに、架蔵本を数点持って行き、本の形態や料紙の種類についてもレクチャーしました。

補講後に事務所へ行き、レポートの受け取り。
月曜講義は112人中101人、水曜演習は35人中29人提出。
とりあえず出ている分だけは読了しましたが、後からメールで「間に合わなかったので、これから提出していいですか」と言ってきた学生が数人。事情を考慮して認める。我ながら甘いなと思いつつ。あ、もちろん、期日に間に合った学生より厳しく評価することは言うまでもありませんが。

以前、期日に間に合わなかった理由として、「プリンタが壊れました」等、みんな似たような言い訳をしてきたことがあります。「揃いも揃って、そんなわけねーだろ!」と思いつつも、「いや、中には本当に壊れた人もいるかも知れない」と、全員認めちゃったんですよね。甘過ぎる。

いちばん面白かったのが、白紙のレポート事件。
――もう、この学生は卒業してるので書きますが――
まず、前期の事務所提出締切後、「レポートを書いたんですが、なくしてしまいました。予備も取ってありません。書き直すので、もう少し待ってください」とメール。 なくした? 本当かな?
この時は題目自由だったので、「では、3日だけ待ちます。でも、どんな題目にしたのかは思えてますよね。題目だけ、今すぐ教えてください」と返信。しかし、音沙汰なし。 どういうことだ? 本当はまだ何も書いてないんじゃないか?
そして約束の3日後、「遅れて申し訳ありませんでした。レポートをお送りしますので、よろしくお願いします」とメール。お、ちゃんと送ってきたな。さて、と、添付されてたワードファイル(ファイル名「report」)を開いてみると・・・完全な白紙!
はぁ?・・と思いつつも、善人 f は、ものすごく好意的に「もしかして、Macで作ったファイルがWinで白紙に化けることがあるのかもしれない」と解釈し(いや、そんなわけないと思いますが)、友人のMacユーザーに事情を説明して転送。しかし、Macで開いてもやはり白紙だったそうで(なお、その彼からの返信メールのタイトルは「白痴です」)。
ということは、「間違えて別のファイルを送ってしまいました~。送り直しま~す♪」とか言って、あと1~2日、時間を稼ぐつもりだな。そんなことは許さん。開封確認メッセージの要求を付けて、すぐにメール。「送っていただいたファイルですが、白紙でした。確認の上、直ちに正しいファイルを再送してください」と。念のため、署名に表記されてた携帯アドレスにも同文のメールを。
しかし、それっきり何の返信もありませんでした。
もう単位は諦めたということでしょうか。当然、後期は授業には来ないだろうな。
・・・と思いきや、後期になっても普通に出席してるんですよね。いや、前期のレポート出さなければ、後期はどんなに頑張ったって単位はあげられないんですが・・・。でも、授業に出るのは自由ですから、そのままにしておきました。
さて、そして迎えた後期のレポート提出。その学生のレポートは・・・また出てない。
そして、またメールが。なんと今度は――

・・・いやいや、もうやめましょう。思い出すだけで疲れてしまいました。いったい、どういう考えでああいうことをやったのか、いまだに理解できません。

レポートに関して、ほかにも色々と面白いことがありましたが、まだ在学中の学生もいますので、そういうケースはここに書くことは自粛しておきます。

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2006年12月27日 (水)

旧記 346

23~25日、恒例のN大クリスマス研究集会。正式には比較人文学先端研究特別演習といって、大学院の授業の一環であり、かつ公開講座でもあり。毎年、諸々の理由で(?)この時期に行われるため、私の周辺では、クリスマスはいつもこの地で過ごすことになる人が多いようです。かく言う私も、過去記事を確認すると、今年で4度目(2001、2003、2004、2006)ですね。
今年は「縁起と勧化の文化学――略縁起の可能性を探る――」と題し、23~25日の3日間。T氏ほか、J研・関西支部のメンバーも大きく関わっているので、関西支部の例会でもありました。
私は24日のみ参加。実は、この日(と翌日)は夏に挙式した教会からクリスマスミサの案内をいただいており、こちらに行くという選択肢もありました。比較宗教学のフィールドワークとして。しかし、迷った末、やはりN大に。

――さて、
略縁起は、単に「本縁起」に対する「略縁起」という存在のみに収束するものではなく、その研究の射程は多岐にわたる可能性を秘めていますが、寺社縁起研究の立場からすると、何らかの形で定義付けへの試みがなされると面白いと感じました。本縁起という語は、略縁起に対置される(場合もある)もので、古代・中世の縁起研究の文脈では出てこないものですが、便宜的に使わせていただきます。その本縁起を略述した縁起を全て略縁起と称するのであれば、『元亨釈書』や『阿娑縛抄』等に収録される各種縁起も略縁起ということになってしまいますが、これらは略縁起研究の対象とはなりません。それは、この時代にはまだ「略縁起」という語が存在していなかった(そのこと自体は事実ですが)からではなく、質的にまったく異なるものであるからです。分量だけが問題となるわけでもなく、また、「略縁起」の語を表題に有するか否かでもありません。では、どこで線を引くのか。例えば、参詣や開帳の介在という視点が提示されました。非常に有効な視点となりうることは確かですが、でも、それだけでは白黒キッチリ分けられない部分も残るんじゃないでしょうか。もっとも、必ずしも峻別する必要があるのかという見方もあるでしょうが、定義付けへの試みはなされてしかるべきだと思われます。しかし、一方で『寺社縁起の文化学』で試みた(「略縁起学」ではなく)「縁起学」の可能性という問題を対置させるならば、やや焦点が定まりにくくもなろうかと。単なる「縁起」とは明らかに異なる「略縁起」というものを想定することは、縁起の可能性の検討という文脈の中ではなされ得ない、ということですか? 略縁起という名で一括しうるテクスト・言説・現象を、ことさらに縁起とは一線を画するものとして検証してゆくか、縁起研究の一側面として論じてゆくか。意見の分かれるところかもしれません。・・・と、以上、会場での発言の補足です。
いずれにせよ、種々の方面から縁起研究が盛んになることは喜ばしいことです。

さて、懇親会。実は、このたびJ研の東海支部が立ち上がることになったのですが、その代表者である某氏が挨拶の中で、第1回例会のアナウンスをしてました。
そして今日27日は記念すべき第1回例会の日。私は出席できませんでしたが、どうやら盛況だったようです。何よりです。あとは、早くホームページを作っていただけると、とてもありがたいのですが。

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2006年12月20日 (水)

旧記 345

そろそろ来年度の講義要項を書かなければ。

同じ科目でも、毎年内容を変えて新しいことに挑戦する、という義務を、一応、自らに課しています。いや、「挑戦」と称するほど大袈裟なものではありませんけれども・・・。
しかし、「そんなこと言ってられるのは、コマ数が少ないうちだけだ」と言われてしまえばそれまでです。専任になり、あるいは非常勤でもコマ数が増えてきたら、そんな余裕はなくなり、可能ならば使い回しで済ませようという思いが強くなるんだろうなと予想されます。さて、いつまでこの主義を貫いていけることやら。
・・・いやいや。
「使い回し」、という“言い方”は多分に負のイメージを纏っているものの、授業内容を使い回すという行為それ自体は、必ずしも非難されるべきものではありません。
毎年、新規の受講生は初めてその授業を聴くわけですから、前年度と同内容であって何の問題があるはずもなし(もちろん、新説を踏まえるとか、説明の仕方を工夫するとか、最低限の修正は必要ですが)。また、科目によっては、同内容を講ずることが求められるものもあるでしょう。当該分野についての最低限の知識を与えることを要請されているような科目ですね。うちの領域で言えば、各時代別の文学史とか、書誌学とか、くずし字・変体仮名とかがこれに当たるでしょうか。
幸か不幸か、私が今までに担当した科目は自由度の高いものばかりで、指定された時代のものであれば何を扱っても良いというタイプの授業でした。なので、自分の専門領域で勝負できるもの、あるいは、これから手を付けてみたいネタを採り上げることが多かったですね。自分の研究と授業内容とが、互いにフィードバックできるような関係にあるというのは、言ってみれば理想的な大学教員像であるように思います。
理想的。――つまり、実際には、なかなかそんなことばかりは言ってられませんよ、ということですが。あ、もちろん、専任教員としての種々の校務云々の話ではありません。そもそも、私の知らない領域ですし。
授業ということのみに絞りますが、自分の研究テーマから懸け離れた内容の授業をやらされることは、可能性としては、いくらでもあります。文学史の授業ならば、当該時代の、あるいは全時代の文学史を通史的に講ずることができなくてはならないし、また、当該時代の作品を採り上げる場合でも自由度は低く、いわゆる「メジャー」な作品に限定されるという場合もあるでしょう。
そもそも、何がメジャーで何がマイナーかという基準は、今さら“近代国家の成立とカノンの形成”というお話を持ち出すまでもなく、考えられている以上に曖昧なものです。
高校の教科書にも載ってるからメジャーに決まってるじゃないかという態度は、何も考えてないのと同じなので、もとより論外ですが、長らく作家・作品という枠組みの中で研究、そして教育が行われてきて、それらの点と点を結んで線にしたのが文学史であったならば、点と線とを追いかけることに夢中になってる人たちが、そこからこぼれ落ちた部分の価値を見いだせないのは致し方のないことなのでしょうか。
現在の研究動向を把握している人ならば誰でも、作家・作品という枠組みだけではどうにもならないということを理解しています。それを理解できない人たちは、作家・作品という観点のみからの判断で「最近の研究は細分化されている」とか、「文学研究から離れてしまっている」とか、的はずれなことを言いますが、研究の“現場”を知らない人の言葉に惑わされてはいけません。
しかし、大学における日本文学の教育“現場”では、依然として作家・作品、せいぜいジャンルという程度の括りしか必要とされていない気がします。されていない、というか、むしろそれらを相対化してしまう新たな成果を意図的に排除しているというか。
言うまでもなく、大学教員は研究者です。研究と教育、双方の現場で活動する立場で、如上の乖離現象にどう向き合っていけばいいのでしょうか。さらには、日本文学系以外の学科に所属している場合には、より問題が複雑化することもありえるでしょう。課題は山積しています。

話が逸れました。

毎年、授業内容を変えるという話でしたね。
えーと、来年度は、今の大学では担当科目自体が替わるので、必然的に内容も変更せざるを得ません。せっかくですから、今まで授業で扱ったことのないもの、しかも、かなり方向性の異なるものを採り上げようと思います。
また、他大学での授業もいくつかありますが、それについては、また改めて。

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2006年11月 7日 (火)

旧記 340

去年のC文学会50周年記念シンポを書籍化した某書が刊行されました。先月の秋季大会で初売りだったそうですが、行けなかった私は、いずれ注文しようと思っていました。
大会の1週間後くらいだったか、某氏より「あの時のオマエの発言について書かれてるぞ」と聞いてびっくり。その場で少し見せてもらいましたが、注文した本が今日届き、改めて読んでみるとやはり感慨深いですね。

・・・特に議論を呼んだのは○○○○氏からの問題提起である。
○○氏の発言は、今回のシンポジウムがジャンルの横断・解体・相対化をねらったものとしての一定の意義を認めつつも、日本文学の研究方法が基本的に時代別・ジャンル別という発想のうえに固定化し、それが学会や大学教育の組織のなかにまで影響するという現状の枠組みを今後とも維持・死守してゆくべきなのか、というきわめて根本的な問いかけであった。


――等のことがシンポの総括中に書かれており、そのうえ本サイトのことも言及されています。
シンポの討議は――当日のことは翌日の記事にも書いてますが――まったく予期せぬ展開でした。結果として、ほとんどスタンドプレー紛いな行為となってしまい忸怩たるものがありましたが、発言内容それ自体については後悔していません。
ただ、後日談がありまして・・・。
私の発言に対し反感を持った人がいたようで、「学問上の議論は堂々とするべきである」というマナーに反し、コソコソと、かつ的はずれな形での嫌がらせが2、3件ありました。異論があるなら会場で発言すればいいのに、大勢の聴衆の前で話すのが恥ずかしかったんでしょうかね。あるいは別の場、別の形であっても、議論を望むのであれば受けて立ちますし、実際、そういう議論も何度かしました。ところが、その種の人たちは発言内容に対してではなく、ほとんど八つ当たりとでもいうようなやり方で攻めてくるんですよね。ある人からは、「それは、オマエの発言に対する妬みだろうな」と言われました。人から嫉妬されることに対しては悪い気はしませんが、あの程度のことで妬まれても、あまり嬉しくありません。というか、むしろ予想外。「目立ってんじゃねーよ」って、田舎のヤンキー中高生の発想ですね(笑)。

それはともかく、私自身はあの発言が会場でちゃんと理解されたのかどうか、気になっていました。突然だったし、そのうえ何百人という聴衆の前でしたから緊張していて、うまく説明できなかったような気がして。
でも、総括を読む限り、私の言いたかったことは十分に理解していただいたようでホッとしました。そのうえ、とても手際よく総括の中に生かしていただき、ありがたいことです。御礼申し上げます。

ちなみに、本サイトが紙媒体で採り上げられるのは(把握している限りでは)今回で2度目です。
1度目は太子町立歴史資料館の某展示図録ですが、サイト名が誤記されてしまいました^^;。

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2006年10月31日 (火)

旧記 339

科研費の書類書きがようやく一段落。いや、私の応募書類ではなく、某先生のものなんですが。
私はそのプロジェクトには研究協力者として参加するだけなんですが、研究目的・研究計画から予算に至るまで、ほぼ任されてたので、趣味に走って非常に“夢のある”申請書に仕立て上げた次第です。しかし、こんな大層な計画、そして高額な予算で、採択されるんだろうか・・・。

書類を書いてる過程で知ったんですが、非常勤でも若手研究や基盤研究等への応募が認められるようになったんですね。全然知らなかった・・・。今年から? それとも、実は前からそうだったとか?
公募要領を見ると、確かに「研究機関に、当該研究機関の研究活動を行うことを職務に含む者として、所属する者であること(有給・無給、常勤・非常勤、フルタイム・パートタイムの別を問わない。また、研究活動以外のものを主たる職務とする者も含む。)」と明記されてますね。
とはいえ、事前に当該機関の研究者名簿に登録されていなければならないので、今それを知っても後の祭りというわけですが・・・。
うちの大学、奨励研究(研究機関に所属してない人を対象とした、即ち、研究機関に非常勤としてのみ所属する人も対象となる科研)の応募については、毎年、案内があります。なので、非常勤の身分で出せるのは奨励研究のみだと思い込んでました。他の科研にも出せるようになったのなら、何らかの形で案内があっても良さそうなものなのに。そういう案内がなければ、申請可能だなんて考えもしなかったから、調べようとも思いませんし。もしかしたら、うちの大学、例の件で科研の扱いに慎重になってるために、そういう案内をしなかったんじゃないだろうか?
今回、私と似たような境遇の研究者2人から、いま応募書類を書いているということを聞き、初めて知るに至ったわけです。
応募資格があるということなら、自分が研究代表者として応募できるだけでなく、他の科研に研究分担者として参加することもできます。つまり、今回書いたプロジェクトの分担者にもなれたということです。協力者として参加するほうが責任等の面で気楽ではありますが、この研究課題が採択されたとしても、自身の研究費獲得歴として数えることができないというのは、書類をまとめた者としては少し残念な気もします^^。

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2006年9月29日 (金)

旧記 336

三田方面の研究会にて発表。研究発表というより、研究展望という感じで。
要は、ここでも何度か書いている、「近代以降の枠組みで前近代の事象を見ることの不条理さを自覚せねばならない」系のネタです。今回はそれを、自然科学・社会科学・人文科学という(あるいはもっと細かい)学問領域、および、古代・中世・近世・近代という時代区分法の二点に注目しながら考えてみよう、というスタンスで。

まず、問題の所在を明確にするため、現状を諷刺する資料を掲出。別役実『鳥づくし――続 真説・動物学大系――』(平凡社、1985)に描かれる鳥類学者と昆虫学者の話、即ち、「鳥は鳥である」ことを自明の前提とする前者と、「もしかしたらこれは虫ではないかもしれない」と、虫という概念そのものを揺るがすことのできる後者とを比較した序文ですね(これはかつて、本サイト付設の掲示板上にて、cutt氏が挙げた一節です)。続いて、今夏の冥王星関係の新聞記事。冥王星という天体それ自体の存在とは無関係に、「太陽系」「惑星」という枠組みは、そこから60億キロの彼方に存在する天体の住人の勝手な都合(学問・知識・技術・政治・・・)によって揺れが生ずるということ。つまり、近代の学問も、そういう不安定かつ曖昧な、そして対象物それ自体との間に本質的な関わりを持たない枠組みによって規制されている、ということです。
そのうえで、まずは学問研究を遂行するための方策として学問の領域画定、即ち学問分野を認識するための枠組み設定がなされているが、それはどういう根拠に基づいているのか、ということの確認。および、歴史認識のための枠組みたる時代区分の方法として、形式的事実(政権所在地等)に基づく方法と、時代の本質に基づく方法の二つがあることを確認。しかし、いずれにせよ統一的な区分は不可能であって、研究の進展により、あるいは対象領域により区分法は多様かつ流動的にならざるを得ないことを指摘。なお、時代の本質に基づく区分法の一例として、末木文美士『日本宗教史』(岩波新書、2006)の区分法を紹介しました。一方で日本文学史の区分法はというと、“最初の文学史”たる1890年の芳賀矢一・立花銑三郎『国文学読本』(富山房書房)、三上参次・高津鍬三郎『日本文学史』(金港堂)以来、若干の例外はあるものの、形式的(=政治史的)な区分法が何の疑問も持たれずに踏襲されています。多くは区分の方針を説明することもせず自明のものとしてそれを用いており、説明があったとしても「政治と文学との関係は」云々という、1890年からほとんど進歩のない“言い訳”をしているに過ぎません。そして、大学における日本文学系学科のスタッフ編成も授業カリキュラムも、基本的にはそれに基づいているが、果たしてそれは正しいのだろうか、という疑問を提示しました。もちろん、それは日本文学だけに限ったことではありません。
ここで、近代国家の成立と軌を一にして学問が制度化されていったということが問題となるわけですが、それについて論じている本を2冊紹介しました。美術史の方面からそういう問題に迫る東文研編『語る現在、語られる過去――日本の美術史学100年――』(平凡社、1999)、および、国文学について論じた笹沼俊暁『「国文学」の思想――その繁栄と終焉――』(学術出版社、2006)。そして、そういう枠組みに基づいて作られた研究システムは、もはやその役割を終え、新たな枠組みの再構築が求められるという刺激的な論を展開する後者から、さらに前田雅之『記憶の帝国――〈終わった時代〉の古典論――』(右文書院、2004)へと話を進め、すでに効力を失った枠組みの中で研究者たちはその自覚もないまま研究に明け暮れ、それゆえに研究という営為が持続してゆくという、クールな現状描写を紹介しました。
さて、では国家による学問の制度化とは具体的にどのようなものか、ということで、『大学規則』『学制』『帝国大学令』等の記述を確認。要は、欧米に倣った近代的教育制度の拡充により、国家主導のもと、学問領域が明確に分化されていったことが見て取れます。これは、徐々に更新され細分化されつつ現在に至っているわけで、科研費申請の際の「分科細目表」を見れば、現時点における“国家公認”の学問領域が一目瞭然です。そして、この中で「細目」「キーワード」として示される学問領域は、研究の進展や科研費の申請件数等に即応して、随時更新されてゆくわけです。
次に、「中世」という問題に絞り、「中世」と称される時代が如何に認識されているのか、という問題の検討を。今春の中世文学会シンポ「中世文学研究の起源」に際しての前田氏のコメントは、まず前提としての「中世」とは何かということで、他領域での「中世」認識にも言及しつつ、文学研究の領域で「中世文学」という認識が形成されていった過程を振り返り、結局、「中世文学」という対象を現在と何らかの形でリンクさせなければ研究は研究たりえないという認識下、その回路を模索するしかないのか、というものでした。その中で、「新たな中世史像の百花繚乱」として種々の中世認識のキーワードが挙げられてますが、そのうちの一つ、例えば顕密体制論をめぐる問題を使って説明するならば、それが提唱された背景には中世認識の変容があり、何が古代的で何が中世的かということが問題とされる中で登場してきたという研究史の流れがあります。つまり、歴史学研究の分野では、時代の本質を分析することにより時代区分を次々に修正・変更していこうという動向が顕著であり、他の分野が所与の区分に沿って当該分野史を叙述することとは対照的であると指摘しました。となると、「文学史」「美術史」「宗教史」等は、史学の下位分類でしかないのか、と。
以上のような問題点を整理しつつ、やや結論めいたことを言うならば、かつて私が某論文の末尾にも書いたように、自分たちが研究・教育システムに組み込まれてしまっているという自覚と、そういうフィルターを通してしか対象を捕捉しえないという一種の諦観を持つべきである、と。それは、前田氏の言う「現在とリンクさせなければ研究は研究たりえない」ということとも一部重なるわけですが、しかし、フィルターの向こうに厳然として存在している研究対象それ自体は“自由”な存在であるという認識ですね。研究主体と対象、それぞれの立ち位置を客観視しつつ、研究を行うことが重要である、という、やや理想論めいていますが、一応、これが現時点での精一杯の結論です。

自ら考えることをせず、与えられた「文学」とか「中世」とかいう枠組みを無邪気に信じ、その中で充足してしまうという、『鳥づくし』の鳥類学者のようなスタンスは論外です。でも、だからといって、「文学とは何か?」「中世とは何か?」と、その枠組みを再検討することばかりに心を奪われ、それを定義付けることを目的とする気もありません。私にとっては、文学の定義が何であろうと、中世の範囲がどこからどこまでであろうと、そんなことはハッキリ言ってどうでもいいんです。どちらも、対象を認識するための(そして、現行システム内で研究対象を説明するための)操作概念でしかないのですから。

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2006年8月 7日 (月)

旧記 330

8月5日(土)、無事に結婚式を済ませました。

まあ、無事といえば確かに無事に、なんですが、若干の問題が。
真夏ですし、ある程度は覚悟してましたが、まさかあれほどの汗をかくとは想定外でした。
太めの人が汗をかくのは「まあ、そういうこともあるよね」、あるいは通り一遍のツッコミを受けて済まされるのかもしれませんが、痩せ男の大量発汗は“絵”としても尋常ではなく、「この人、病気?」という感じで、おいそれとはツッコめない異様な雰囲気なのではないかと。
ただでさえ暑いうえに、フロックコート着用で、
教会に着いた時点でけっこうな発汗。入堂し、司祭の前(この位置は聖堂の中でも特に暑い)に座った時には、文字通り“流汗”。実は、私も軽くメイクをしてもらってたんですが、この汗でファンデーションが溶けて大変なことになってるんじゃないかという懸念があり(実際は大丈夫でしたが)、でも自分で確認することもできず、ハンカチで拭くことすらできず、ひたすら汗が止まることを願うも、そう思えば思うほどに焦って汗は噴き出し・・・という、まさにドツボ状態。もちろん、緊張もあったんでしょうが。あと、体調も。
せっかくの、カトリック教会での本格的な挙式だったのに、私自身は汗のために何も覚えてません(泣)。

でも、式でこれだけ発汗すれば、この細い体に汗はもう残ってないだろうと思い、安心して披露パーティー会場
へ。
ウェルカムスピーチ。原稿なしでこの種の挨拶をしようとすると、止めどなく話が長くなってしまうという、教壇に立つ人間の大部分が持つ悪癖を当然私も持っているので、一応、原稿は作っておきました。が、出だしの言葉が「本日はお暑い中」・・・。こんな取って付けたような時候の挨拶をしたって、教会式から来てくれた人にとっては「って言うか、オマエがいちばん暑がってるじゃねーか」としか言いようのない状態なので、結局、原稿の出番はなく、思い付きで挨拶したわけですが。最後の新郎挨拶も同様。
会費制の、気楽な立食パーティー、という感じで考えており、実際に、そういう雰囲気で進行できたと思います。それというのも、修士時代の友人でもある司会者
や、パーティー全体をプロデュースしてくれたブライダルサロン、受付その他を手伝ってくれた方々、スピーチや謡をしてくださった方々、祝電をくださった方々、要所要所で必要以上に笑ってくれた方々、そしてご来場いただいた全ての皆様(90名弱)のおかげです。
なのに、結局、パーティーでも大汗かいて、大変な状態になってました。これさえなかったら、どんなに良かっただろうか、と思っても仕方ありませんが。まあ、新郎が主役というわけではないので、いいんですけどね。

ちなみに、会場に掲げたウェルカムボードは
こんな感じです。

さて、二次会。
企画してくれたのは、W大学ではなく、なぜかK大学関係者2人。ありがとうございました。
彼らとは研究会や寺院調査等でよく一緒になる研究仲間なので、自然な流れでこういう展開になったんですが、一見、「オマエはW大学に友達がいないのか?」という感じでもあります。でも、W関係者も日文のほか日本史・東哲・美術史・教育国文出身者が併せて20名以上も来てくれました。全体では50名強。詳細が決まったのがギリギリの時期だったため連絡が遅くなったんですが、にもかかわらず都合を付けてお越しいただいた皆様、ありがとうございました。
一次会後に某氏より「オマエ、二次会に来る前に麻布十番温泉にでも入ってこいや」と言われてしまった汗かき男ですが、二次会の衣装は浴衣と決めていたので、ちょうど良いツッコミでした。もちろん、温泉には行ってませんけれども。

そして、三次会以降は流れで。
最後は4人で朝を迎えましたが、その前に嫁は帰ってしまいました。

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